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飯田城/宮崎市

飯田城は伊東四十八城の1つで、まだ誰も登城記を書いていません。
訪問日は2018年12月29日です。

唯一紹介されているサイト様では「道すら無い」と書かれています。
でも、伊東四十八城制覇を目指す私としては、ここが正念場ですメラメラ
ということでググりまくって、位置は特定出来ました。
(『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅰ』を参照しました)
しかし、地図をいくら眺めても山中に通じる道の描画は無し。
ならばと航空写真を見たら、道っぽいのが写っていましたヾ(*´∀`*)ノ
そうしてやって来たのが、城跡の西側でした。
当初の目論見通りの道が、入口はありました。
しかし、あっという間に藪に飲み込まれ、道の形跡すら見えず・・・
心が折れそうになった私に、黒い方のなぽがボソっと呟きました。

【15】飯田城

「道が無くても城跡には行けるw」
位置は特定出来ているので、一直線に斜面を登りました。
そうして登り切った所に、なんと道がありましたw
前置きが長くなりましたが、その道を逆巻きで紹介しますあせる

【1】飯田城

入口はココです。
道の奥の竹やぶがちょっとだけ開いてますよね?
送電線保守用の道が通っており、白い標柱が目印です。

【2】飯田城

反対側は、真正面に病院が見えます。

【3】飯田城

定期的に人が通るだけあって、綺麗に整備されています。

【4】飯田城

こうやって送電用の鉄塔をいくつも辿るように道が続きます。

【5】飯田城

時にはこんな所もありますが・・・
ジャングルジムって、これ見て発明されたのでしょうか?
隙間が大きいので、大人でも楽々通れます。

【6】飯田城

途中、人の背丈程の段差が1か所あります。
見た目通りで、ここをよっこらしょと上がると道が続いています。

【7】飯田城

ここも送電用鉄塔の脇を通って先へ進みます。

【8】飯田城

ここから少し上がって振り向くと、高岡城の模擬天守が見えますラブラブ

【9】飯田城

そうして辿り着いた一番高い所がココです。
この藪を突っ切って奥へ進もうと思いましたが×でした。
この藪はツル植物がメインで、トゲトゲの木に巻き付いています。
通せんぼのツルと痛いトゲトゲのタッグは、そう簡単には破れません。
いいよと言ってもらえれば、チェーンソーで刈りたい気持ちで一杯です。
多分ここの平坦面が主郭と思われます。

【10】飯田城

メインの道からちょっと藪の方に入っていく道がありました。
そちらへ踏み込むと、北側に一段低い平坦面がありました。
おそらく、ここが二段目の曲輪と思われます。
写真では奥に入って行けそうに見えますが・・・
大部分は細い木が密生していて、こちらも簡単には入れません。
下の軌跡で右上にちょっとだけ入ったのがココです。
藪が濃すぎて、曲輪の形をトレース出来ませんでした。

【11】飯田城

登って来た道は続き、北側に下りて行きます。
そちらも少しだけ見てきました。
城跡っぽいと感じたのはココです。
なんとなくですが、土橋に見えます。

【12】飯田城

その先は平坦な道が続きます。
ちょっと気になったのは、この道の左側でした。
少し道より低いのですが、杉林があります。
その中がどうも曲輪くさい感じがしました。
ここに来て面倒臭がりが出て、そっちには行かず。

【13】飯田城

堀や土塁も見当たらないまま、道はどんどん下って行きます。

この先には何もないだろうなと見切りを付け、元の山頂に戻りました。


【14】飯田城



さっきの土橋ですが、反対側から見るとこんな感じです。

手前が低くて、道だけ土が盛られていて、向こう側が少し壁っぽい感じ。

これってやっぱり堀切ですよね?

位置といい、形といい、城跡っぽさはありますが・・・

ハッキリとした遺構は見えませんでした。





◆歴史◆

1387年、伊東祐武により築かれたと伝わります。

昨日書いた都於郡城にも登場しますが、同姓同名の別人です。

あちらは武蔵守で、こちらは肥後守です。

ナゾの多い人物で、伊東家当主になった?という説もあるそうです。

あらためてググってみると

・嘉慶元年(1387)、飯田城を築いたと伝わる

・応永8年(1401)、石塚城を攻め落とす(翌年島津軍に奪還される)

・応永25年(1418)、伊東本家は石塚殿と協議して車坂城と石塚城を交換

・永享6年(1434)、 10月頃、伊東祐武が没する
といった感じです。

宮崎市南部で島津軍と一進一退の攻防戦を指揮していた人物のようです。



1432年、伊東家の城になります



飯田付近の河骨の戦で島津軍に勝利し、伊東家の城となりました。

という事は、一度島津家の城になったという事ですね。

それがいつなのかは?ですがあせる

この頃の伊東家当主は伊東祐立で、戦ったのは島津忠国です。

島津忠国は渋谷一族との戦に苦戦し、島津家が一枚岩でなかった頃です。

伊東祐立は落合七郎左衛門を城主としました。

落合氏は伊東一族で、伊東宗家が日向に下向する際に被官となりました。

戦国時代には落合兼置が山東惣奉行として活躍しています。

山東は大淀川以南の事です。



1577年、島津軍に攻められました。



島津軍が日向に攻め込み、伊東義祐が豊後へ落ち延びました。

この時の飯田城主は川崎治部大輔でした。

川崎治部大輔は主家が日向を去った後も、島津軍に抵抗し続けたそうです。

攻めあぐねた島津軍は、飯田城攻略を諦めて撤退しています。

その後は?ですが・・・

ググって出てくるのは「容易に降らなかった」「しばらく抵抗した」です。

この地方は島津家の領地となるので、最終的には降伏したと思われます。

ただ、川崎治部大輔のその後はわかりません。

また、島津家の城になってからの城主も不明ですあせる





所在地:宮崎市高岡町飯田 GPSログダウンロードページ


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※黒い線は斜面を直登したルートで、赤い線がちゃんと歩ける道です

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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