2019/01/03
都於郡城/宮崎県西都市
都於郡(とのこおり)城は伊東四十八城というより、伊東氏の本拠でした。訪問日は2018年12月29日です。

都於郡城見学者用の駐車場がココです。
見過ごして一番奥の三の丸まで行っちゃったのは内緒です


駐車場から角を左へ曲がり、案内のある所で右に曲がるとこの道です。
左側の斜めの土が、いきなりですが本丸の城塁です。

この土の壁に1か所だけ、階段が付けられています。
その入口にある石碑には「高屋山上陵」と彫られています。
「あれ?」と思いましたが、見えづらい側面に「都於郡城本丸跡」とも。
設置された時の時代背景が反映されているのだと思います。

本丸に上がっていく虎口です。
いきなり何の障害も無く上がっていくので?でしたけど・・・

カギ形に曲がっているのと、土塁の配置は不自然ではありません。
どうやらお城の時からこうだったようです。
今は周囲は開けていますが、当時はそうじゃなかったかもしれません。

虎口を上がった所に、城址標柱と城のイラストがあります。
前回はこれだけ見て帰っちゃっいました。
無知って本当に勿体ないです


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本丸は一番右に描かれており、単体の平面としては最大です。
本丸の上にあるのが「奥ノ城」と呼ばれ、妻子が暮らしたそうです。
中心にあるのが「二の丸」で、城内で一番高い曲輪です。
左上にあるのが「三の丸」、その下が「西ノ城」です。
この5つの曲輪がメインで、さらに周辺も城域なのだとか。
とにかく巨大なお城でした。

本丸に入ってすぐの所に、憂いを含んだ少年像があります。
城跡の周りも含め、伊東満所の文字がやたらと目につきます。
彼は天正遣欧少年使節団の1人として渡欧した事で有名ですね。
その選ばれた理由が・・・
当時豊後にいた宣教師が企画したそうで、その近くに居たためです。
具体的には大友宗麟の姪の夫の妹の子という繋がりだったそうです。
本当はもうちょっと近い、姪の子である伊東祐勝が派遣される予定でした。
ただ、当時安土に居て間に合わず、その代役が伊東満所となりました。

本丸は虎口を上がった所で左右に分かれます。
地面はひと続きなのですが、中央部は陵墓のため立入禁止となっています。
虎口から見て右側はこんな感じです。
外周には低い土塁が残っています。

右端まで行くと、隣にある奥ノ城が見えます。
本丸の方が少し高いので、奥ノ城を少し見下ろす感じになります。
土塁に囲まれた曲輪を斜め上から見ると、まるで火山ですw

本丸と奥ノ城の間は、こんなに深い堀で隔てられています。
城主の奥方が居た所なのですが、堀から入る虎口があります。
本丸から橋を渡してはいなかったようです。

土塁に沿って更に奥へ進むと、今度は別の堀が現れます。
こちらは二の丸との間の堀です。
先ほどの堀も凄いのですが、こちらが城内最大の堀です。
幅は20メートル程、深さも10メートル程ある巨大なものです。
写真だと2、3メートル位にしか見えませんけど


陵墓を避けて本丸の反対側に行くと、芝が綺麗に手入れされています。
初めに入った虎口から奥の虎口まで、こっち側に道があるせいでしょうか。
道の無い所には、あんまり入っていく人はいない、という想定かも。
道が無くても草が生えてても、入っていく人種はいますけど

その「反対側」の虎口です。
こちらもしっかり土塁でガードされています。

先ほどの小っちゃく見えた本丸と二の丸の間の堀です。
木が写ると、さっきよりは大きく見えるかと思います。
それでも雰囲気が伝わり切っていません。
この場に居ると、ほんとうに圧倒されます


二の丸への入口はここ1か所だけ。
ちゃんと示さないと見えない位に目立ちません。

虎口を上がると、すぐ脇にある土塁に圧倒されます。
高さは3メートル程で、本丸との間の堀に沿ってあります。

土塁上から本丸を見ると、二の丸の方が高いことがわかります。
本丸の中が丸見えです。
城としては、こちらの方がメインだったと思われます。

すぐ脇には、かなり大きな腰曲輪を従えています。

本丸と反対側には、三の丸と隔てる堀があります。
いちいち巨大です

いつもは入れない私の影を入れてみました。
どれだけ深いか伝わりましたでしょうか?

堀底からも撮りました。
撮りましたというか、往復しました

この風景、落ち着きますよね?
私だけかもしれませんけど


さらに奥の三の丸を目指して進みます。
三の丸へはちょっと左へ回り込んで入ります。
正面に見えているのは西ノ城で、三の丸は右側にあります。

ということで、手前にある西ノ城です。
内部は草ボーボーで、真冬でなければ入れなさそうです。

西ノ城から見た三の丸です。
こちらもやはり、深い堀で隔てられています。

西ノ城の奥にある腰曲輪です。
こちらの草は、さらに丈の高いススキです。

西ノ城と三の丸の間にある堀です。
先ほどからデカイ堀ばかり見て感覚マヒしますが、ここのも大きいです。

三の丸の虎口です。
西ノ城は城塁を上がる道でしたが、こちらはちゃんとひねってます


三の丸内部です。
こちらも膝の高さ程の草が一面覆っています。
一部の特殊な嗜好の人以外、ほぼ立ち入らない感じがします。

三の丸側から見た二の丸との間の堀です。
ここもかなり深いです


最後に奥ノ城です。
内部は丸い草ボーボーの平坦地です。
先ほど本丸から見た時は土塁で囲まれているように見えました。
しかし実際に行ってみると、土塁は本丸側にしかありませんでした。
その土塁は、T字形の虎口を隠す役割を果たしています。
ここの虎口が、都於郡城では一番厳重な造りになっています。
◆歴史◆
1335年、伊東祐持が日向に下向しました。
伊東氏は源頼朝から日向に領地を与えられ、庶子家が下向していました。
鎌倉幕府が滅びると、北条氏の領地が空白地となりました。
日向には、北条一門筆頭の赤橋氏が多くの領地を持っていました。
正室が赤橋氏出身の足利尊氏が、その領地の確保に動きました。
足利尊氏は都於郡300町を伊東祐持に与え、日向に派遣しました。
伊東祐持は同時期に派遣された畠山直顕に従い、南朝方と戦いました。
一方、利害の対立した伊東庶子家は、南朝方として本家に対抗しました。
結果として伊東氏は、伊豆の本拠を一族に押領されて失いました。
1480年、伊東祐国は佐土原城を本拠としました。
伊東祐国は、日向支配を確立させた伊東祐堯の子です。
その過程で伊東祐国が、伊東氏庶流の佐土原氏に養子入り。
しかし、伊東祐国はその佐土原家を乗っ取りました。
父・伊東祐堯が没してからも、佐土原を居城としました。
これ以降、伊東氏は佐土原城を本拠としています。
1533年、家督争いの争乱の場となりました。
伊東祐充が没し、伊東家嫡流が絶えました。
そのため、伊東祐充の父の弟を中心に、家督争いが起きました。
この時、最初に優位に立ったのが伊東祐武でした。
伊東祐武は伊東祐充の叔父で、家老・福永祐炳らを自害に追い込みました。
福永祐炳は伊東祐充の外祖父で、幼い伊東祐充を補佐する立場にありました。
一時はそのまま伊東祐武が家督を継ぎそうになりましたが・・・
反対派の荒武三省が伊東祐武を攻め、自害に追い込みました。
荒武三省が担いだのが伊東祐充の弟・祐清で、後の伊東義祐です。
伊東義祐が当主となると、島津家から飫肥を奪うなど全盛期を築きました。
1577年、島津義久の城となりました。
伊東義祐は伊東家の全盛期を築き上げました。
しかし、ここから凋落が始まります。
伊東義祐は政務への情熱を失い、伊東帰雲斎が専横するようになります。
島津義久が日向に攻め込むと、不満を募らせた家臣が次々と離反。
島津軍が佐土原まで一気に肉薄したため、伊東義祐は日向を捨てました。
都於郡城は島津家臣・鎌田政親が城主となりました。
1587年、島津家が豊臣秀吉に討伐されました。
日向を手に入れた島津義久は、さらに北へと侵攻。
豊後の大友宗麟をあと一歩の所まで追い詰めました。
大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、九州征伐が始まりました。
数に勝る豊臣軍が島津軍を圧倒。
島津義久が降伏し、それまでに侵略した領地の大半が没収されました。
日向には伊東祐兵が復帰しましたが、宮崎城と曽井城のみでした。
都於郡城は佐土原の領主・島津豊久の城となりました。
島津豊久の父親は、島津義久の末弟・島津家久です。
九州征伐直後に急死したため、豊臣家による暗殺が疑われました。
佐土原の安堵は、その疑いを払拭するためだったと考えられています。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
佐土原藩は佐土原城を本城としたため、都於郡城が廃城となりました。
所在地:宮崎県西都市鹿野田
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