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飯盛城/大阪府大東市・四條畷市

飯盛城は三好長慶の居城だった山城です。
2017年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年12月23日です。

【1】飯盛城

山城なので、どこから登ろうかというのが悩みのタネです。
よく紹介されているのは、城跡の北西にある四條畷神社です。
私は南から細い道を通って、楠公寺から登城しました。
ここへの道はとても細く離合不可なので、あまりお勧めは出来ませんあせる

【2】飯盛城

道は楠公寺の境内を通り抜け、さらに続きます。
道が大きく左→右へ湾曲している所があります。
舗装道が鋭角に左へ曲がるココは、堀切の跡です。
道が造られたことで、ちょっとわかりづらくなっています。

【3】飯盛城

私はここで、車が通れない方の道へ進みました。
分岐から数十メートル先に、石垣がありますラブラブ
真ん中にバリケードがあり邪魔だぁ~なんて思いましたが・・・
中を覗き込むと、大きな石が1個抜けていました。
バランスが崩れ、周りも崩れそうなのかもしれません。

【4】飯盛城

ここの石垣は15メートル程、道に沿ってあります。

【5】飯盛城

たまに上を見上げると、こんな風に堀切が見えたりしますラブラブ

【6】飯盛城

さらに進むと、道が分岐しています。
手前が楠公寺、先が四條畷神社、そして、上が飯盛山山頂です。

【7】飯盛城

分岐から見て北側に、笹で覆われた平坦地があります。
ここは本丸三本松郭です。
訪ねた時には位置がよくわかっていませんでしたが・・・
この先にもまだ二ノ丸の曲輪がありますあせる

【8】飯盛城

私は「端っこっぽい」と感じたのか、Uターンして山頂へ向かいました。
先ほどの分岐を曲輪上から見たところです。
ここも堀切の跡っぽい感じがします。

【9】飯盛城

分岐から山頂へ向かう道は、ロープが張られています。
足元が岩で滑りやすいので、しっかりした靴を履いて行きましょう。

【10】飯盛城

登り切ると細長い平坦地でした。
ここは本丸倉屋敷郭です。
図を見ると、本丸〇〇郭というのが7つあります。

【11】飯盛城

細長い本丸倉屋敷郭の南端まで来ると、城塁に突き当たります。
石段は往時は無かったと思いますが、登ります。
屁理屈こねますが、やっぱり楽なのがいいですからw

【12】飯盛城

上の曲輪には、変わった形の展望台があります。
ここが本丸展望台郭です。
昔からこういう名前だったのか、だんだん?になりましたあせる

【13】飯盛城

これまで2段登って来ましたが、展望台郭の上に更に高みがあります。
チラっとですが、銅像が見えますラブラブ

【14】飯盛城

銅像が真逆光で、なんだか後光が差しているように見えます。
ここが本丸高櫓郭です。
雰囲気的には、ここが一番高そうな感じです。
銅像は現地では誰なのかわからず。
逆光なので、正面は綺麗に撮れませんでした。

【15】飯盛城

銅像の手前には、ちっちゃな城址碑があります。
これと銅像と合わせて一本で、ここが主郭なんだと思いました。
確かに周りより高いし、眺めも素晴らしいです。

【16】飯盛城

何とか銅像綺麗に撮りたいなぁなんて思い・・・
横からなら光の具合が丁度良かったです。
お顔が見えませんけどあせる
後から案内図を見たら、銅像は楠木正行でした。

【17】飯盛城
拡大表示

城址碑の後ろには、案内マップに説明文が載ってるヤツがあります。
とってもいい図なので、イタダキますラブラブ

【18】飯盛城

銅像のある郭の南端は、結構急な感じになっています。
この感じ、堀切様ですラブラブ
下の道から見えたのはココでした。

【19】飯盛城

反対側から見るとこんな感じ。
銅像のある郭の方が高くなっています。

【20】飯盛城

ここからさらに南側に、放送施設への道があります。
周りを見ると大きく凹んで見えます。
左側の下が初めに歩いた道で、竪堀状に凹んでいました。
わかりづらくなっていますが、大堀切様ですねラブラブ

【21】飯盛城

舗装道を登り切ると、アンテナのある建物が現れます。
ここも平坦地になっており、案内図では本丸千畳敷郭と書かれています。
飯盛城では一番広い郭で、周りよりも高い所にあります。
たぶん、ここが一番メインの場所だったんじゃないかと思います。

【22】飯盛城

放送施設の南側に、もう一段広い曲輪があります。
さっきまでの山上の細長い郭よりも沢山建物が建てられそうです。

【23】飯盛城

この二段めの郭の南端に、はっきりわかる虎口があります。
この虎口の脇には、ここではあまり見られない土塁があります。
堀切脇には土塁が無かったので、構造的にはちょっと古い感じです。

【24】飯盛城

虎口は二段構えになっているように見えます。

【25】飯盛城

下から見上げるとこんな感じです。
両脇に大きな石が落ちているので、門があったかもしれません。
・・・もう勝手に色々想像しながら歩き回りましたあせる

続日本100名城スタンプ設置場所
【7】飯盛城スタンプ【7】大東市立歴史民俗博物館
 大東市立歴史民俗博物館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=10KIJ_slsripNqsOC5f0vzC0h20w&ll=34.71668668118557%2C135.6423091933832&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図
 開館時間 9時半~19時半
 休館日 第1・3火曜(祝日の場合翌日)、12月29日~1月3日
 入館料 無料
※四条畷市立歴史民俗資料館にも設置されています

◆歴史◆

なるべくザックリ書きましたが、長くなりましたあせる

南北朝時代に戦場となりました。

この頃はまだ城ではなく、戦の時の陣だったようです。
1348年に四條畷の戦が近くでありました。
この時に南朝方の軍勢がここに陣を構えていたようです。
ただ、南朝方の本陣は、約8km南の往生院にありました。
なので、楠木正行が戦死したのはここではなかったようです。

木沢長政により本格的な城が構築されました。

木沢長政は、河内と山城の守護だった畠山義堯の家臣でした。
畠山家中で争いが始まると、半ば独立したような活動をしました。
細川晴元と細川高国の争いに介入し、細川晴元の勝利に貢献。
木沢長政は細川晴元の力で、畠山義堯の河内守護職を奪おうとしました。
これに怒った畠山義堯が飯盛城を攻めたのが1531年の事です。
なので、築城はそれよりも少し前になります。

木沢長政は細川晴元に近づくことで勢力を増しました。
主君の畠山義堯を自害に追い込んで、畠山総州家を掌握。
同時に、細川家の有力者・三好元長も自害に追い込みました。
畠山尾州家の重臣・遊佐長教と組んで、畠山稙長を追放。
両名で畠山家を乗っ取り、畿内で有数の勢力となりました。

しかし、1542年になると木沢長政の転落が始まります。
三好元長の遺児・三好長慶が成長し、細川家中で台頭。
ともに畠山家を牛耳っていた遊佐長教は、旧主と和解。
畠山稙長が復帰して、畠山尾州家が木沢長政を突き放しました。
さらに畠山総州家中でも、木沢長政離れが加速。
河内高屋城で木沢長政派の家臣が粛清される事件が起きました。
木沢長政は将軍の擁立にも失敗しており、幕府から追討を受けました。
そして3月17日、細川・三好・畠山連合軍と戦って討死しました。

畠山高政家臣・安見宗房が城主となりました。

安見宗房は元々は木沢長政に従っていました。
しかし、木沢長政が討死する直前に寝返り、畠山高政に仕えました。
木沢長政亡き後、1552年までは遊佐長教が畠山家を牛耳りました。
しかし、萱振賢継が遊佐長教を暗殺。
その萱振賢継を安見宗房が飯盛城で謀殺し、畠山家を掌握しました。
足利義輝と三好長慶が対立した際は三好長慶に味方しましたが・・・
安見宗房は主君・畠山高政と次第に対立するようになりました。
1559年、畠山高政が紀伊に追放されますが、三好長慶の協力を得て逆襲。
安見宗房は一度は三好軍の松永久秀を撃退しましたが・・・
三好長慶と松永久秀が合流し、8月4日に飯盛城が落城しました。

1560年、三好長慶の居城となりました。

三好長慶の力で安見宗房に勝利した畠山高政でしたが・・・
守護代・湯川直光を罷免して、安見宗房を復帰させました。
これには三好長慶が激怒し、畠山高政と安見宗房を攻めました。
三好長慶は河内を弟・三好実休に与え、飯盛城に居城を移しました。
この時に家督と本拠・芥川山城を嫡男・三好義興に譲っています。
これは、対立した将軍・足利義輝との関係修復のためだそうです。

1564年、三好長慶が飯盛城で没しました。

畿内10か国を支配し、全盛期を築いた三好長慶でしたが・・・
間もなく三好家の転落が始まります。
1561年、和泉を支配していた弟の十河一存が急死しました。
この機に乗じて畠山高政が六角義賢とともに畿内へ侵攻。
この戦いで、河内を支配していた弟・三好実休が討死しました。
重鎮2人を相次いで失った三好家中では、相対的に松永久秀が台頭。
三好長慶自身も精神を病んでおり、若い三好義興を軽んじ始めます。
その三好義興が1563年8月に23歳の若さで急死。
1564年5月、松永久秀の讒言を元に弟・安宅冬康を飯盛城で殺しました。
騙されていたことに気づいた三好長慶はさらに病が重くなり・・・
この年の7月に世を去りました。

三好義継が城主になりました。

三好家は三好長慶の弟・十河一存の子が養子となり継ぎました。
1565年5月1日、将軍・足利義輝から一字与えられ、三好義重と改名。
・・・したのですが5月19日に御所を襲撃し、将軍・足利義輝を殺しました。
この直後、三好義継と改名しています。
三好義継は三好三人衆に担がれ、松永久秀と戦いました。
しかし、次第に若い三好義継は露骨に軽く扱われるようになり・・・
戦っていた松永久秀と組んで、三好三人衆と戦うようになりました。
1568年、足利義昭に応じて畿内に進出した織田信長に協力。
三好三人衆を畿内から追放することに成功しました。
1571年から松永久秀とともに織田信長と対立し、信長包囲網に加担。
武田信玄が没すると、織田信長が優勢となります。
1573年、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡。
足利義昭を匿った三好義興は、織田信長の怒りを買い攻められました。
最期は若江城で、三好義継は自害して果てました。

畠山秋高の城になりました。

畠山秋高は畠山高政の弟で、足利義秋(のち義昭)の将軍擁立を支援。
その功により、河内国の南半国を安堵されました。
1571年、足利義昭が織田信長と対立すると、織田信長に味方しました。
しかし、畠山家中は足利義昭派が大半で、遊佐信教が実権を掌握。
1573年、遊佐信教に攻められて、畠山秋高は自害しました。

遊佐信教はその後、三好康長とともに織田信長に抵抗しました。
1575年、高屋城の戦で織田軍に敗れてからは消息不明となります。
織田信長は畿内を制圧すると、城をことごとく廃城としました。
このころまでに、飯盛城も廃城になったものと思われます。


所在地:大阪府大東市大字北条~四條畷市大字南野
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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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