2018/12/28
芥川山城/大阪府高槻市
芥川山城は三好山に築かれた城でした。2017年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年12月23日です。

芥川山城は私有地にあり、公園ではありません。
そのため、登城者専用の駐車場はありません。
よく紹介されているのは、南側の有料駐車場です。
そちらからも城跡に行けますが、ちょっと距離があります。
私は北側にある、摂津峡公園の上ノ口駐車場から登城しました。
駐車料金は南側と同じ1日1000円で、近くの漁業組合で支払います。

駐車場から100メートル程西へ進むと、城跡への入口があります。
南側の案内よりも、案内らしい案内です。
こちらには説明板と縄張図まであります。
南側の塚脇バス停の説明板群に負けていません(`・ω・´)

ただ、こちらからの登城はマイナーなせいか、道は細いです。
しばらくは芥川沿いのこんな所を通ります。
ロープが張られていないと、怖くて通れません。

案内の所から400メートル程山道を進むと、正面に別の道が見えます。
これが南から上がってくる道です。
落ち葉が積もっておらず、歩いて来る人が多いのがわかります。
北側からの道は比高も距離も少ないですが、落ち葉が沢山ありますw

ここから、獣避けフェンスに沿って山中に入る道があります。
黄色のテープにマジックで「↑三好山(芥川城跡)」と書かれています。
ただ、左側には「倒木多く通行不可」とも。
先にスタンプ押したしろあと館でも、城跡は入れないと言われました。
2018年9月の台風被害で倒木がひどく、復旧が終わっていないと。
そのため、せめて入口だけでも、というつもりで訪ねました。
その入口がココですが、立入禁止などのバリケードは無し。
とりあえず「行ける所まで」のつもりで進みました。

入口からすぐの左側に、最初の平坦地があります。
ペッタンコで防御性ゼロですが、きっと何かあったに違いありません。
と、当たり障りのない事を書いてます


続いて曲輪群の案内が。
何もなければただの山林ですが、道の右側に何となく段差が見えます。

ハッキリ見えたのはここで、皆さん一度ここに上がってるようです。

ここから上の段を見てみると、中は平坦になっています。
手入れされているようで、小さな墓碑があります。

さらに進むと、左側にかなり目立つ竪土塁が現れます。
この向こう側が竪堀-堀切になっています。
堀の外側に土塁があるのは珍しいと思います。

竪土塁のすぐ先に、パッと見てわかる土橋があります。
こうやって見ている位置の右脇には、土塁で囲まれた曲輪があります。
まだまだ進める!と期待が膨らみます。

土橋の向こう側はこんな風に切通しになっています。
おそらく虎口と思われます。
城の主要部の入口のようで、かなり凝った造りとなっています


虎口から入ってすぐの所に、フェンスに沿って歩いた跡があります。
左側はちょっとこんもりした曲輪のようです。
事前に用意した図では、この裏側の先端に石垣が描かれていました。
これはもう、見に行くしかありません!

弧を描いたフェンスに沿って進むと、行き止まりになっていました。
ここは入れないのかと少しガッカリし掛けましたが・・・
黄色い紐で簡単に結んであるだけなのが見えました。
ここは開けてもいい獣避けフェンスでした


フェンスの先は、こんもり曲輪を帯曲輪が囲んでいました。
規模はとても小さいですが。

ただ、奥へ進むとこんな感じで、倒木が折り重なっています。
こんなのを乗り越えること三度・・・w

アニメで見る崖の先端のような所に辿り着きました。
先端から下を見ると細尾根状になっており、歩いた形跡があります。
上からは石垣は見えませんでしたが・・・

下りてみたら、足元が石垣でした


ここで初めて見た石垣に興奮しつつ、元の道に戻ります。
すると、すぐにコンクリート製の小さな碑が見えました。

この碑には「史蹟城山城跡」の文字が。
裏には高槻市教育委員会とありました。

小さな城址碑のすぐ脇から、下りる道が分岐していました。
その両脇に例の文字が書かれた黄色テープ。
そこには
「大手門石垣40m下る」
「石垣周辺まで降りれる」
「その下倒木多く通行不可」
と書かれていました。
もちろん見に行きました。

道端に例の黄色テープで案内があります。
ここでキョロキョロしたらありました!
斜面の土から石垣が顔を覗かせています


石垣だけアップで撮るとわかりませんが、周りはこんな感じです。
木が幾重にも倒れ、石垣をあわや直撃という所まで迫っています。
道の柵は潰れ、周辺の獣避けフェンスも大破していました。
よくぞ直撃を免れたものですε=(´∀`*)

大手門石垣からまた元の位置に戻り、先へ進みます。
進める所だけ見るつもりが、かなり奥まで進めていました。
石碑の所から道の先を見るとこんな感じです。
道を倒木が塞いでいますが、通れなくはありません。

さらに進むと正面の台地に上がり、平坦面の上にもう一段あります。
そこへ上がる道も、こんな感じで倒木が塞いでいます。

倒木を避けて上がると、さらにもう一段。

一番高い所へ上がる道も倒木が塞いでいました。
しかし、ここの倒木は分断され、上の枝に「出入口」と書かれています。

出入口から上がった所が主郭です。
祠を中心に説明板やイラストが設置されています。
先ほどの倒木が、画面右端から中央にかけて写っています。

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せっかくなので、力作をパクリます

主郭は、西・南・東をこんな腰曲輪に囲まれています。

主郭を奥まで進むと、左脇から下りる道があります。
図では、主郭の北側に堀切が描かれていました。
堀切様に逢へる!ということで、ルンルン気分で下ります。

下りた所は小さな曲輪で、「形の土塁がありました。
土塁の裏はアレ!

と思いましたが、ここにはありませんでした。
ここの曲輪の先に

いらっしゃいました

深さは3メートル程です。

この先にさらに曲輪があり

その先端下にもいらっしゃいました


主郭部に別れを告げ、さらに奥へと進んでみました。
図では、左下に大土塁が描かれています。
入口だけでも見られればと訪ねてみましたが、欲が出てきました。

奥への道を進むと、間もなく例の黄色テープで「堀切」の案内が。
普通に気づきませんでしたが、道の脇を見たらこんな感じでした。
道は凹んでいませんでしたが、道端から竪堀になっています。

このすぐ先にかなり広い平坦地があります。
ここが田ノ丸と呼ばれる曲輪です。
位置的には、大土塁の真上にあります。

田ノ丸の左脇に、斜面を下る道があります。
その道の入口に「この先キケン 倒木処理中」と黄色テープ。
本当にダメな所には「立入禁止」がありました。
じゃぁ


割とすぐにこんな風になりましたけど

道を倒木が覆っているだけではなく、一部崩れている所もあります。
まぁ、いつも通りなので、気にせず道を辿って下りました。

谷間に沿って道を下ると、右側にこんな光景が見えました。
どう厳しい目で見ても、人の手が加わっています。
直感的にコッチ♡と思い、こちら側へ入って行きました。
ココは土塁ではありませんが、奥へ道が続いていました。

奥の道を進むと、三角形の平坦地の先端に出ました。
奥の斜面、ちょっと違和感ありませんか?

裏に回るとこうなっていました。
ここが大土塁ですね(=^・^=)
ということで、立入禁止の所を避けつつ、ほぼ全部見て来れました。
大土塁からは何となくの踏み跡を辿って上に行こうとしましたが・・・
踏み跡はすぐに消え、倒木ランドとなりました。
来る時に下った谷間がすぐ脇に見えたので、そっちに渡って戻りました。
入口に戻る途中で、土橋脇の曲輪にチェーンソーの人が居ました。
ヘルメットには黄色テープにも書かれていた「GF」の文字。
城跡を管理されている方でした。
たった1人で倒木を処理して大変そうでしたが、話し掛けてみました。
まずは主郭までの道を確保する所から始められたそうです。
「遠くから見に来てくれはる方もいるから」
ということで。
竪土塁は見える所は無事ですが、下の方は倒木でやられているそうです。
お別れ際に「ありがとうございます」とお礼を言いました。

さて、私は北側から登ったのですが、南側のバス停も気になっていました。
歩いて下って来ましたが、バス停のすぐ先にちょっとなら停められそう。
北側の駐車場から車で来ればよかったです。
・・・というのは、来てみなければわからない事です


バス停にはこのように、説明板やペーパー類など色々あります。

拡大表示
一番右側の説明板には、この実測図が載っています。
北側のは南が上でしたが、南側のココのは北が上です。
登城路は東側にあり、北と南への道があります。
続日本100名城スタンプ設置場所
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高槻しろあと館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=10KIJ_slsripNqsOC5f0vzC0h20w&ll=34.84468066031738%2C135.62304492883607&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図 開館時間 10時~17時(入館は16時半まで) 休館日 月曜(祝日の場合開館)、祝日の翌平日、12月28日~1月3日 入場料 無料 |
◆歴史◆
バス停の説明板からつまんで行きます
1516年までに細川高国が築きました。
細川高国は細川宗家である吉兆家の15代目の当主です。
養父が暗殺された後、同じ養子の細川澄元と一進一退の攻防が続きます。
芥川山城はこの頃に、摂津支配を強化するため築かれました。
城主には能勢頼則が任命されました。
能勢氏は摂津源氏の子孫で、摂津では有力な国人衆でした。
細川高国は将軍・足利義稙さえも出奔させ、幕府を牛耳りました。
しかし、讒言を信じて重臣の香西元盛を殺したことから歯車が狂います。
1526年、細川澄元の子・細川晴元や三好元長に攻められ京を奪われます。
その後、各地を転々とした後、1531年に捕まり自害に追い込まれました。
以後、摂津は細川晴元の支配地となります。
1553年、三好長慶が入城しました。
能勢氏は3代にわたり城主だったようですが、詳細はわからず。
1526年に細川高国が敗れた頃に去ったのか、細川晴元に従ったのか・・・
1547年、三好長慶が四国から兵を率いて細川晴元を攻めました。
細川晴元は戦に敗れ、一時京を離れました。
芥川城には三好一族の芥川孫十郎が入りました。
その名の通り、かつての本拠地だったからだそうです。
しかし、その芥川孫十郎が細川晴元に寝返りました。
そのため、三好長慶が東側の帯仕山に付城を築いて兵糧攻めにしました。
芥川孫十郎は三好長慶の妹婿だったため命は助られましたが・・・
三好氏の本貫地である四国に送られ、以後表舞台には登場しなくなります。
孫十郎討伐後、三好長慶が芥川山城を本拠とするようになりました。
1560年、三好義興が城主となります。
三好長慶は旧主・細川晴元や木沢長政らを倒し、天下人となりました。
その勢力は畿内10か国に及び、三好氏の全盛期を築き上げました。
この頃に三好長慶は家督を嫡男・三好義興に譲り、飯盛城へ移りました。
三好長慶は当時すでに相当精神を病んでいたそうです。
三好義興は将軍との関係も修復し、三好家は安泰と思われました。
父に負けず知勇に優れ、松永久秀を従えて各地を転戦しました。
しかし、ここから悪夢のような出来事が続きます。
1561年、和泉を支配していた叔父の十河一存が急死。
1562年、十河一存の死により起きた戦で、叔父・三好実休が戦死。
それでも六角軍や畠山軍と戦い、撃退してきました。
しかし、1563年に病に倒れ、23歳の若さで急死しました。
死因は黄疸だそうです。
1568年、和田惟政が城主となりしました。
三好義興の没後、十河一存の子・三好義継が三好家を継ぎました。
しかし、まだ年齢も若く、三好三人衆は露骨に傀儡としました。
三好三人衆は松永久秀と対立し戦っていましたが・・・
三好義継は三好三人衆を離れ、松永久秀に味方するようになりました。
この頃に織田信長が足利義昭を奉じて畿内に侵攻。
織田信長に味方することで、三好三人衆に勝利しました。
三好義継は和泉国北半国と若江城を安堵されました。
芥川山城には、足利義昭の家臣・和田惟政が入りました。
1569年、高山友照が城代となりました。
三好三人衆が足利義昭を襲う事件が起きました。
この時、和田惟政がいち早く駆けつけて足利義昭を守りました。
和田惟政はこの功により与えられた高槻城に移りました。
芥川山城には和田惟政の家臣・高山友照が入りました。
1573年、廃城となりました。
1571年、和田惟政が池田知正との戦で討死にしました。
和田家は嫡男の和田惟長が継ぎました。
しかし、高山友照・右近父子とは仲が悪かったようで・・・
和田惟長は1573年、高山父子暗殺を謀るものの失敗。
逆に高山父子により追放され、間もなく没しました。
下剋上を果たした高山父子は高槻城に移り、芥川山城は廃城となりました。
所在地:大阪府高槻市原(三好山) GPSログダウンロードページ
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