2019/02/15
篠川御所/福島県郡山市
篠川御所は、篠川公方が構えた東北支配の拠点でした。訪問日は2016年8月1日です。

篠川御所跡には、東館稲荷神社があります。
遺構は多分何もなく、このあたりが御所だった?という感じです。

右の土盛が土塁?かと思いましたが・・・
すぐそばを川が流れており、その土手でした。
城館跡に神社があると、とりあえずご挨拶。

社に向かって進むと、鳥居の手前に石碑がありました。
全体で撮ると真っ黒けっけで何が何だかサッパリわからず・・・
文字のある所をアップで撮りました。
御所跡のつもりで訪ねましたが、石碑は城跡でした。
何にも無いので、どっちでもイイヤって感じですけどw

何が何でも城跡(御所跡)の雰囲気を感じるんだ!と歩き回りました。
でも、周りはだいたいこんな感じです。
一応、東北地方をとり纏めようとした一大拠点の現在の姿です

◆ザックリ歴史◆
足利満直が篠川公方に赴任しました。
1391年、陸奥と出羽が鎌倉府の管轄となりました。
1398年、鎌倉公方・足利氏満が急死し、足利満兼が継ぎました。
1399年、足利満直が篠川公方、足利満貞が稲村公方に赴任しました。
同時赴任は異説ありですが・・・
篠川公方は伊東氏、稲村公方は二階堂氏の全面バックアップを受けました。
さらに白河結城氏も協力し、斯波氏や伊達氏と何度も争っています。
1400年に起きた伊達政宗の乱では、上杉禅秀が出陣し鎮圧しています。
篠川公方・足利満直の史料の初出は1414年です
1413年、伊達持宗が乱を起こし、鎌倉公方・足利持氏が鎮圧しました。
足利持氏は足利満兼の子で、足利満直の甥にあたります。
これに危機感を抱いたのが、関東管領・上杉禅秀でした。
上杉禅秀は足利持氏と対立し、勢力拡大を目論んでいました。
篠川公方は、史料の初出である1414年に赴任したとする説もあります。
普通、すぐ近くに2人同時に公方置きませんよね?
足利満直は上杉禅秀を後ろ盾とし、足利持氏・稲川公方と対立気味でした。
1417年、上杉禅秀が乱を起こし討たれました
関東管領と鎌倉公方が真っ向対立し、関東を二分する大乱となりました。
この争いは鎌倉公方が勝利し、上杉禅秀が粛清されました。
以後、関東管領は山内上杉家がほぼ独占するようになります。
足利持氏は歯止めが利かなくなり、幕府との対立が激化し始めました。
1423年、篠川公方・足利満直が鎌倉公方候補となりました
室町幕府は、鎌倉公方を罷免して足利満直に交代させようとしました。
そのため、陸奥の大族・大崎氏らに、足利満直を支援するよう命じます。
足利持氏派だった稲村公方は、鎌倉に帰って甥を支援しました。
1429年、鎌倉派の石川氏や白河結城氏が挙兵しました。
彼らを抑えるべく討伐するのが篠川公方の仕事でしたが・・・
大した兵力の無い篠川公方は出陣出来ず、幕府の信用を失いました。
幕府は鎌倉公方との和解に舵を切り、1431年に和睦しています。
1439年、永享の乱で鎌倉公方が討たれました
1438年に足利持氏が関東管領・上杉憲実を襲う噂が立ちました。
足利持氏はたびたび幕府と衝突し、上杉憲実がその度に庇っていました。
しかし、身の危険を察した上杉憲実は、領国の上野国へ退去しました。
これを機に足利持氏が挙兵し、幕府が鎌倉に討伐軍を送りました。
この時に足利満直に錦の御旗が送られ、東北諸氏を率い出陣しています。
年末には大勢が決し、足利持氏は鎌倉の永安寺に幽閉されました。
上杉憲実はこの期に及んでも足利持氏を庇いましたが・・・
将軍・足利義教に命じられ、やむなく永安寺の主を討ちました。
この時に、元稲村公方・足利満貞も運命を共にしています。
1441年、篠川御所が襲撃され、足利満直が殺されました
将軍・足利義教は、自分の子を鎌倉公方にしようとしました。
しかし、下総結城氏を中心に足利持氏の遺児を擁立する動きが起きました。
1440年に結城氏が挙兵したため、幕府が討伐しました。(結城合戦)
この戦乱に乗じ、足利持氏派だった南陸奥諸氏も挙兵。
幕府寄りの拠点である篠川御所を襲い、足利満直が討たれました。
これにより、東北地方から幕府の拠点が無くなりました。
鎌倉公方と関東管領は後任を立てられず、数年間空位が続きました。
所在地:福島県郡山市笹川字東舘(東舘稲荷神社)
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