2019/02/17
今泉城/福島県須賀川市
今泉城は二階堂氏の会津方面に対する境目の城でした。訪問日は2016年8月1日です。

城跡への入口です。
足元の案内が無いと、躊躇して入れなさそうな所です。

でも、なんだかちょっと


しかも、案内は「外曲輪」と書かれていました。

ビニールハウス脇を通り抜け、山に入る所に説明板があります。
かなり気合い入ってて、小さな文字でビッシリ埋め尽くされています。
こういう所に設置した方の性格が表れ、あちこち巡ると楽しいです。

いつもの道なき山野を切り拓く!よりはいいのですが・・・
普段から訪れる人が無い様子です。

城内の様子です。
桜の木が植えられているようです。
春先には地元の方で賑わいそうな感じです。
ただ、足元も野草で賑わっています

実は城内を紹介しようと数枚ピックアップしたのですが・・・
画面に並べてみると、どれも同じにしか見えませんでした

説明板では東西5、600メートル、南北3、400メートル。
山頂に一の曲輪があり、二の曲輪、三の曲輪が段になっているそうです。
曲輪はそれぞれ土塁で囲まれ、これらを囲む帯曲輪もあると。
そして、東側の尾根には少なくとも2つの堀切があると書かれています。

◆ザックリ歴史◆
二階堂氏の城でした
文安年間(1444~49年の間)、二階堂氏により築かれました。
1484年、蘆名盛高が二階堂領に侵攻し、今泉、柱田で合戦となりました。
1548年、伊達稙宗が舘ヶ岡に侵攻し、今泉城主・矢部主税祐らが撃退。
「牛庭原の戦」と呼ばれ、須田備前守、浜尾義泰らが活躍しました。
永禄年間(1558~70年の間)はじめ頃、二階堂輝行により修築されました。
内城の城代は矢部周防守、外城の城代は娶川佐衛門が任命されました。
1559年、田村氏が侵攻し二階堂輝行が破れました。
田村月斎が城代となりました。
1582年、伊達輝宗が調停し、田村氏と二階堂氏の講和が成立しました。
田村月斎が今泉城を退去し、二階堂家臣・浜尾駿河守が城代となりました。
1585年、伊達政宗が二本松の畠山義継を攻めました。
佐竹・蘆名・二階堂・白河結城・石川・岩城連合軍が今泉に集結しました。
人取橋で伊達軍を破りましたが、その日の夜に佐竹軍が撤退しています。
1589年、城主の浜尾駿河守盛泰が伊達政宗に内応しました。
蘆名氏を滅ぼした伊達政宗には、周辺勢力が次々に従いました。
二階堂氏は二階堂盛義の没後、その正室・大乗院が当主でした。
大乗院は伊達政宗の叔母ですが、甥の誘いを断固拒否しました。
伊達軍は二階堂氏の本拠・須賀川城を攻め落として滅ぼしました。
1590年、豊臣秀吉により奥州仕置きが行われました。
1587年の惣無事令後に伊達政宗が得た領地は、全て没収されました。
会津の蒲生秀郷の領地となり、廃城になったものと思われます。
所在地:福島県須賀川市今泉字館山
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