2018/12/18
松山城/福島県須賀川市
松山城跡は現在、岩崎山史跡公園となっています。訪問日は2016年8月1日です。

後ろに写っている岩山が城跡です。
意識せず撮りましたが、山の下に供養塔群が写っています。

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案内図の左上に、弘安6年から明治まで霊地だったと書かれています。
弘安6年は、西暦に直すと1283年です。
これは、沢山ある供養塔で一番古いものが弘安6年の物だそうです。
何かあったのかな?と思いググりまくりましたがわからず。
年代的には二度の元寇から霜月騒動の間です。
この頃には既に、この地域は二階堂氏の領地でした。

公園になっているので、城跡の山は真夏でも登れるよう整備されています。
とりあえず、案内図にあった平坦面をたどりながら登ってみました。

四阿(あずまや)の所が石造七観音です。
中腹にある平坦地ですが、城跡らしさは感じられません。

四阿からターンして登って行くと、それっぽい所に来ました


この上が、案内図にあった「松山城址」です。
奥に小さな石の祠があり、その脇に城址標柱があります。

案内図ではここが城跡ですが、実際はもっと奥が主要部です。
ここは松山城の一番南にあった曲輪です。
さらに奥だと当時持ち歩いていた資料にもありましたが・・・
私が当時訪ねたのはここまででした。
たぶんですが、真夏だったので草深かったのかもしれません。
2年半前の事なので、記憶があやふやです


帰りは手っ取り早くということで、上りとは別のルートから下りました。
途中あるこの平坦地は、案内図にある第二展望台です。
腰曲輪のような、後世削って造ったのか・・・
◆歴史◆
二階堂氏の一族・横田氏の城でした。
1444~48年の間に横田左京により築かれたと考えられています。
この時期に二階堂為氏が須賀川に下向し、須賀川城に入りました。
岩瀬郡を掌握した二階堂為氏が、領内の再配分をしたのかもしれません。
松山城でググって見つかるのは
①1537年、蘆名盛氏に攻められた
②1562年8月、田村隆顕に奪われた
③同年中に二階堂軍が包囲し、田村軍から奪い返した
④1566年2月、蘆名軍に攻められ落城した
⑤1589年、伊達政宗に攻められた際、横田治部少輔が籠城した
だけです。
この中で特筆すべきは④です。
松山城と横田館が蘆名軍に攻め落とされ、横田氏が生け捕りにされました。
これに対して二階堂盛義は、嫡男を人質に出して降伏しています。
一族とはいえ、何故そこまでしたのか気になっていました。
二階堂氏はこの後、伊達政宗に滅ぼされるまで蘆名家と行動を共にしました。
ググってみたら、面白いものを見つけました。
二階堂盛義の父・二階堂照行の弟が横田義信でした。
二階堂照行は1561年に没していました。
なので、横田義信は当時、二階堂一族の筆頭という事になります。
蘆名軍に捕らえられたのが横田義信、と書いたサイトはありません。
ただ、二階堂盛義の行動から、その可能性が大だと思いました。
1589年、伊達軍に抵抗し松山城に籠城したのは横田治部です。
横田治部が横田義信なのかどうかは?です。
本家の須賀川城が落城後、横田治部は伊達軍に降伏。
領地の3分の1が安堵されたそうです。
しかし、翌年の奥州仕置きで、この辺り一帯が蒲生氏郷の領地となりました。
おそらくこの時に廃城になったものと思われます。
横田治部のその後は不明です。
所在地:福島県須賀川市木之崎字岩崎山(岩崎山史跡公園)
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