2018/12/17
稲村御所/福島県須賀川市
稲村御所は陸奥出羽両国を統治するため設置された拠点でした。「御所」という事で、ここには稲村公方・足利満貞がいました。
訪問日は2016年8月1日です。

御所跡の東側にある赤城寺です。
ここも何かあったように見える地形です。

このお寺の境内脇から御所跡通じる階段があります。

階段を上がった所に、古いお堂があります。

周りはこんな感じで、かなり広い平地となっています。
その一部分が耕され、畑となっています。

外周は低い土塁で囲まれていました


北側に虎口があり、その向こうに大きな堀があります。
地図を見ると、北側にキュッ♡と等高線が凹んでいます。
しかし、私の写真はここで終わり。
真夏で雨も降りだし、真横に倒れた竹を見て撤退したようです。
◆歴史◆
1399年、稲村御所が設置されました。
1391年、陸奥と出羽が鎌倉公方の管轄となりました。
奥州管領が弱体化し、幕府の統制が利かなくなったためだそうです。
そのため、より地理的に近い鎌倉公方に任された、という事でしょうか。
1398年に2代目の鎌倉公方・足利氏満が急死。
その跡を継いだ足利満兼が、弟・足利満貞を陸奥に派遣しました。
この時に築かれた御所が、ここ稲村御所です。
稲村御所は南陸奥の雄・二階堂氏の領内に築かれました。
二階堂氏を筆頭に、伊東氏、白河結城氏などが従いました。
1402年、伊達政宗が乱を起こしました。
鎌倉公方が稲村御所の設置を機に、伊達家に領土の割譲を迫りました。
これに伊達政宗(独眼竜じゃない方)が猛反発しました。
伊達政宗は大崎氏も巻き込み、反鎌倉府の兵を挙げました。
大崎氏は足利一門で、奥州管領を務めていましたが・・・
この頃には力を失っていましたが、ネームバリューはありました。
彼らを押さえるのが稲村公方の役目でしたが・・・
関東管領・上杉朝宗は、自らの子・上杉氏憲を大将として伊達軍を討伐。
伊達政宗は降伏し、鎌倉で犬懸上杉家の名声が高まりました。
対照的に、役目を果たせなかった稲村公方の権威は失墜しました。
さらに追い討ちをかける出来事が起こります。
それは、篠川公方の赴任でした。
篠川公方は次兄・足利満直が任命され、すぐ近くに御所を開きました。
後ろ盾となったのは犬懸上杉家で、鎌倉公方に対抗するものでした。
この篠川公方が中心となって、反鎌倉公方連合を構築し始めました。
1416年、上杉氏憲(禅秀)が乱を起こしました。
1409年に鎌倉公方・足利満兼が没すると、幸王丸が跡を継ぎました。
幸王丸は1398年生まれなので、当時まだ10歳か11歳でした。
そのため、補佐役の叔父・足利満隆と上杉氏憲が鎌倉府を牛耳りました。
しかし、幸王丸が元服して足利持氏となると、状況が変わりました。
足利持氏は自ら政務を執るようになり、上杉氏憲が失脚。
危機感を抱いた足利満隆と上杉氏憲がクーデターを起こしました。
上杉氏憲が起こした乱は、関東を二分する大乱となりましたが・・・
鎌倉公方・足利持氏が勝利し、上杉氏憲と足利満隆は自害しました。
稲村公方にとっても朗報だったハズですが・・・
1423年、篠川公方・足利満直を幕府が支援しました。
鎌倉公方・足利持氏が室町幕府と対立。
幕府は篠川公方の足利満直を次の鎌倉公方にしようと画策しました。
足利満直は、南奥諸勢力を反足利持氏派にしようと動きます。
すっかり存在感の薄くなった稲村公方ですが・・・
1424年、足利満貞が鎌倉に戻りました。
稲村公方・足利満貞は、足利持氏を支援しようと鎌倉に戻りました。
足利持氏は歓迎したようですが、ビミョーですね

その後は足利持氏を補佐したようですが、補佐の要る人ではありませんw
1439年、足利持氏は反乱を起こし、自害に追い込まれました。
足利満貞もこの時、一緒に自害することとなりました。
所在地:福島県須賀川市稲字御所舘
福島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント