2018/11/17
滑津城/福島県中島村
滑津城は東西に伸びる台地上にありました。訪問日は2016年7月31日です。

城跡への入口は西側にあります。
これ、ゼッタイに堀跡だと思います。

台地上はこんな感じで、全面まっ平に馴らされ畑となっています。
堀跡が窪んでないかと端から端まで見ましたが、完璧にまっ平です。

東の端から振り返って見た所です。
端っこまで来ると、雑草が茂っている所もあります。
これも御時勢でしょうか。

元よりそれは覚悟の上(`・ω・´)
見に来たのは、北側の端に残る堀の名残です。
台地上は埋めても、斜面までは埋めませんからね。
耕してない所から北の端に行き、凹んだ所を探しました。
事前に見た超有名城キチ様のサイトでは、見事に凹んでいました。
そんな絵になる所は見つけられませんでしたが・・・

頑張って探したらありました!
斜面が大きく凹んでいます。
曲輪と曲輪を隔てていた堀の、斜面の竪堀部分は残っていました

◆歴史◆
石川光房により築かれたと伝わります。
石川光房は石川氏の祖・源有光の五男です。
築城年代は不明とされますが、石川有光は1037年生まれの1086年没です。
状況から平安時代末に築かれたと思われます。
石川氏が本拠とした三芦城からは、西へ約6kmの所にありました。
地理的には、西の白河結城氏に備えるための出城といった感じです。
戦国時代は舟尾氏の城でした。
城主の名前がわかっているのは舟尾昌忠です。
色々ググってみると、1444年には滑津城の城主だったようです。
後に佐竹家に転じたとされています。
ここからは完全に想像なのですが・・・
岩城常隆が1510年、白河結城氏の内紛に乗じて領地を奪いました。
この岩城常隆の50人以上いる子の中に、船尾隆輔の名があります。
「船尾」というのは、岩崎氏の本拠地だった地名だそうです。
どこかわかりませんでしたけど

白河結城氏に仕えていた舟尾氏がいた・・・
結城氏と争った岩城氏の子が船尾氏を名乗っている・・・
舟尾氏を滅ぼした岩城氏が子に領地を与えたのではないか?と思います。
船尾氏は最終的に佐竹氏に仕えています。
この辺りは1560年に佐竹義昭が侵攻して版図に加えました。
この時、石川氏や岩城氏も佐竹氏の傘下に入りました。
1571年には、佐竹義重が岩城家当主の権限を行使した記録が残っています。
(岩城家中の争いの決裁や岩城領内にあるお寺の権益承認など)
1589年、伊達政宗に攻められました。
伊達政宗が摺上原の戦で蘆名氏を滅ぼしました。
すると、白河結城氏や石川氏が佐竹家から離反し、伊達家に寝返りました。
滑津城の船尾昭直も伊達政宗に恭順を申し出ました。
しかし、拒否されて伊達家配下となった石川氏や浅川氏に攻められました。
船尾昭直は籠城し抵抗しましたが、佐竹義重に命じられ撤退しました。
翌1590年、豊臣秀吉により奥州仕置きが行われました。
伊達政宗は、前年に蘆名氏を滅ぼして得た領地は惣無事令違反として没収。
石川氏や結城氏など、この時伊達政宗に従った領主はみな改易されました。
これは伊達政宗が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣するのを禁じたからでした。
おそらくこの時に廃城になったものと思われます。
所在地:福島県西白河郡中島村大字滑津字御城
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