2018/11/17
白川城/福島県白河市
白川城は白河結城氏の本拠地で、別名・搦目(からめ)城とも呼ばれます。訪問日は2016年7月31日です。

白川城は白河小峰城から南東に約2.5kmの所にありました。
この辺り一帯は白河郡と呼ばれ、結城氏が支配していました。
その白河結城氏について調べていると、時々こっちの表記がありました。
はじめは誤字かと思いましたが、本拠地が白川城だったからでした。
城跡の南西の道端に、城跡への案内があります。

入口から10メートル程は舗装されていましたが、あとはこんな感じ。
私のバイクは舗装道専用で、砂利道だとグリップ出来ずにすっ転びます。
ということで、砂利道の入口に愛車を停めて城跡まで歩きました。
四ツ脚の原動機付車両であれば、主郭の真下まで乗ったまま進めます。

砂利道から主郭へ上がる階段です。
この前に3、4台ほど車を停められるようになっています。
どう見ても往時の道ではありませんが、私、楽な方が好きです。

階段を上り切った所が主郭です。
途中帯曲輪があるそうですが、気付きませんでした

奥州の大勢力だった白河結城氏の本拠だけあって、かなり広いです


主郭の真ん中に「後村上天皇聖蹟之碑」と彫られた石碑があります。
天皇がここに?と疑問に思いググってみました。
後村上天皇は後醍醐天皇の子で、南朝方として足利尊氏と争いました。
陸奥には1333年と1336年に行幸しており、その時に立ち寄ったようです。
白河結城氏は南朝方の主力で、何度も京で北朝方と戦っていました。
天皇のその後が気になりますが、長くなるので下に書きますw
◆歴史◆
1189年、結城朝光が白河郡の地頭となりました。
結城朝光は結城氏の祖で、下野国の大族・小山氏の出身です。
源頼朝の寝所を警護し、御剣役を務めた回数は御家人最多の側近です。
御剣役は、将軍の脇で刀を持っている人の事だと思います。
ググって出てくるのは、だいたいそんな感じの意味合いでした

壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経に、鎌倉入り不可を伝えた使者も務めました。
こうしてみると、歴史の表舞台でひっそり大役を務めていました。
1289年、結城祐広が白川城を居城としました。
白川城は築城年が不明ですが、結城祐広が1289年に居城としました。
結城祐広は結城広綱の弟で、白河郡の一部を与えられ独立しました。
白河郡の大部分は下総国の本家が代官を置いて支配していました。
本家を凌ぐようになったのは、2代目の結城宗広の時です。
結城宗広は1331年に始まった元弘の乱で、鎌倉幕府軍として畿内へ出陣。
しかし、1333年に後醍醐天皇方に寝返り、倒幕軍の一員として活躍しました。
後醍醐天皇の信頼を得て陸奥南部の統治を任され、勢力を拡大しました。
廃城年も不明です。
白河結城氏は、古河公方の親子喧嘩とリンクして内紛がありました。
時期は1500年代はじめ頃で、当初は足利政氏(親)に味方していました。
しかし、白河結城氏庶流の小峰朝脩が足利高基(子)側に寝返りました。
本家の結城政朝と小峰朝脩の争いは、従来は結城政朝勝利とされていました。
しかし、その後の年代に結城修理大夫と記された文書が発見されました。
「修理大夫」は本家の結城政朝の「弾正少弼」よりも高い位でした。
おいそれと勝手に名乗ることの出来る名前ではありません。
そのため、内紛は小峰氏が勝ち、本家を乗っ取ったと考えられています。
丁度この時期に、白河結城氏が本拠を小峰城に移した事がわかっています。
その後の白川城は、いつまで城として使われたのかわかっていません。
所在地:福島県白河市藤沢山(御本城山)
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