2018/10/29
白石館/福島県浅川町
白石館は来福寺脇の山中にありました。訪問日は2016年7月30日です。

国道から一直線の脇道に入った真正面が城跡です。
往時からこの道はまっすぐだったのでしょうか。
なかなか男気がありますw

突き当りに石段があります。
石段がまっすぐ斜面・・・ということで、この先に神社があります。

石段を登って振り返った所です。
斜面に沿って一面の田んぼがあります。
この田んぼが一番下の曲輪だったようです。

石段の真ん中に鳥居があります。

鳥居は踊り場のように、途中で平らになった所にあります。
横を向くとこんな感じで、どうやら帯曲輪のようです。

もう少し上がると、石段の脇に横堀もありました。

登り切った所には、村社八幡神社があります。

社殿の左脇に立派な土塁があります。
神社のある所が2郭で、この奥が主郭なのだそうです。

2郭と主郭の間の堀です。
主郭は鬱蒼とした藪の中・・・
流石に私でも中には飛び込めませんでした

◆歴史◆
石川家臣・白石氏の城でした。
ここを紹介されているのがお一人なので、詳しい事はわからず。
ただ「白石相模守晴光の居館」とだけ紹介されていました。
・・・萌えます

ということで、ちょっとだけ頑張りました。
その「ちょっと」から大胆に推測すると・・・
・白石氏は平安時代は浅川の領主だった
・鎌倉時代になり領地を削られた?(浅川は浅利氏の領地となりました)
・石川氏に従っていた(石川氏と一緒に佐竹家、伊達家に仕えた)
という感じです。
「白石相模守晴光」で検索
①「里白石悲恋物語」(ザックリ)
白石相模守晴光の娘・桜姫は、家老の子・小太郎と幼馴染でした。
しかし、年頃になると会う機会が全く無くなりました。
そこで、久しぶりに夜こっそり会い、お互いに惹かれ合いました。
ただ、身分の差は如何ともしがたく、叶わぬ恋に小太郎が絶望し自害。
桜姫が後を追い、さらに乳母までもが2人の後を追ったという悲話です。
②何かの文の途中(超ザックリ)
是を始めとして奥州より佐竹に心を通じた味方は・・・白石相模守・・・
これによって石川の一門・・・が佐竹方となった。
・・・の部分には、石川昭光や浅川二郎の名も含まれています。
この後には、小峰義親が城を維持し難くなった事も書かれています。
文意から、1574年の出来事と思われます。
この年、小峰義親が石川昭光の居城・三芳城を攻め落としました。
しかし、石川昭光は小峰義親の敵・佐竹義重に臣従しました。
佐竹家の後押しで石川昭光は領地を取り戻しましたが・・・
石川昭光は甥っ子の伊達政宗とも敵対する立場となりました。
「白石相模守」で検索
①白山比咩神社(浅川町)
浅川の領主であった白石相模守朝光は、久安2年(1146年)加賀の国より、白山神社を勧請して白山比咩を建立した。毎年、大晦日には除夜の花火が打ち上げられ多くの参拝客が訪れます。
この神社は青葉城の北西の麓にあります。
浅川は1221年の承久の乱後から浅利氏(浅川氏)の領地となっています。
それ以前の浅川の領主が白石氏だった、という事ですね!
②初代登米邑主伊達(白石)相模守宗直は、慶長10~13年(1605-08)にかけて迫川へ流下する流路を遮断し、北上川の河道を二股川に合わせ、北上川上流部からの水をすべて柳津方面へ南下させるようにした。この流路変更とともに、大泉地点から長谷山地点までの堤防工事も行われた。
江戸時代初期の仙台藩の文書に、白石相模守の名が登場します。
白石氏は主家石川氏と共に、奥州仕置後は伊達家臣となったようです。
所在地:福島県石川郡浅川町大字里白石字出シ
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コメント
無題
お盆ということでご先祖のこと書いてないかと思い見ていました。
実家の系図によると、石川22代城主尚光公の子若狭守朝光公が里白石に相模守隆光公の後うつりすんだそうです。若狭守朝光公が白石家初代になっております。
白石家は石川宗家の補佐役で奥州仕置の混乱の中、合戦に敗れ北茨城の花園神社にかくまってもらい、慶長9年に現在の塙町川上花園(花園神社からつけた地名)に移ったそうです。その後次男三男が水戸藩士、仙台に行ったと聞いています。水戸徳川家が家臣の系譜を調べた水府系纂に実家のことが書いてあります。
実家はそこで帰農し代々庄屋として幕末をむかえ、現在父が初代から数えて19代目として家を守っています。
ついうれしくなり聞いてもいないことを書いてしまいました。すいません。
2020/08/14 00:24 by 09500308 URL 編集