2018/10/28
青葉城/福島県浅川町
青葉城は浅川町を見下ろす山の上にありました。訪問日は2016年7月30日です。

青葉城は、城キチ様達や某大聖典は「浅川城」と紹介されています。
別名「青葉城」なのですが、私はいつも現地での表記で紹介しています。
城跡を南北に林道が貫いていて、ここは南側の林道入口です。
入口に城山公園の案内があり、「青葉城址公園登口」の石碑もあります。

ひたすら舗装道を登ると、広い場所に出ます。
ここが公園の駐車場で、お城的には曲輪の1つでした。
当日は道端でバーベキューの準備をしている方が居ました。
ストビューでも反対側でバーベキューっぽいのが写っています。
ここってそういう所なのでしょうか?w

道端の公園入口脇に、青葉城の説明板がありました。
残念ながら大好物の縄張図はありませんが、あるだけでヾ(*´∀`*)ノです。
ここには地形が急峻なため特に防御機構が必要なかったと書かれています。
そのため、特に残ってるものも無いとも。
某大聖典にも、これと同じような事が書かれています。
載っている図も、公園と駐車場しか描かれていません。

道端から上がった公園内部の様子です。
全国各地から「へぇー」というつぶやきが聞こえてきそうです。
ここが二郭の跡です。

二郭の端に、一段高い所があります。
上がった所に神社のあるここが主郭です。
また「へぇー」と言われそうなので、上の写真は載せません(`・ω・´)

公園だけ見れば、とりあえず曲輪の平坦地は残ってるなぁと思います。
しかし、せっかく来たのですから、もう少し奥まで進んでみて下さい。
割とすぐに切通が現れます。
これは林道を通した時のただの切通ですが・・・

その裏側はこうなっています

何も無いって、これ堀切じゃないですかw
林道を通すために「何も無い」ことにしたのでしょうか?
貴重な遺構があることになると、いろいろ面倒ですからね。

堀切から先の道端はこんな感じです。
林道が城内のド真ん中を通っています。

ボコッとなっている所はこんな風になっています。
曲輪と曲輪を隔てる空堀ですね!

もうちょっと進むと、こちらは段差があります。

さらに進むと、一気に落ちて行きます。
城域はここまでのようです。
城塁の下をよく見ると、窪んでいるので堀があるようです。

振り返って見るとこんな感じです。
いい感じの城跡ですが、林道が通され残念な光景になっています。
ラクに来ることが出来るのが、唯一のいい所です。

道端の曲輪に入ってみると、端に低い土塁がありました。
北から南へだんだん高くなっていくので、北が大手口だったようです。

林道が城跡の手前で終わってればなぁ・・・
道幅が広く、曲輪の半分くらいが消滅しています。
何も無いどころか、ちゃんとした山城の遺構を見ることが出来ます

◆歴史◆
甲斐源氏の子孫・浅川氏により築かれました。
浅利氏は甲斐源氏の一族で、鎌倉時代にやって来ました。
甲斐源氏ということで、武田氏から早い時期に分かれた一族です。
源平合戦で功を立てた浅利義成は、出羽の比内地方を与えられました。
その後、承久の乱で功を立てた孫の浅利知義に浅川が与えられました。
以後、戦国時代まで浅利知義の子孫が浅川を支配し続けました。
青葉城はその子孫・浅川氏が本拠としたお城です。
いつ頃築かれたものなのかはわかりません。
戦国時代に何度か攻められました。
この辺りが佐竹・蘆名・白河結城氏の勢力境となり、戦が続きました。
浅川氏は石川氏の一族化し、ともに行動することが多くありました。
以下、いろいろググって出てきたものを列記します。
(浅川氏はほぼ石川氏なので、石川氏の大きな出来事も併せて書きます)
1560年、佐竹義昭が石川氏庶流の赤坂氏を傘下に収めました。
1567年、佐竹義重が石川氏の本拠・三芦城を攻め落としました。
(三芦城は青葉城の北北東約7kmにありました)
石川晴光は岩城重隆を頼って落ち延びました。
1568年、石川晴光が石川昭光(伊達晴宗の四男)に家督を譲りました。
石川晴光は伊達晴宗の支援を期待して養子に迎えていました。
家督を譲ることで伊達軍を迎え、失地回復を狙ったのかもしれません。
1569年、岩城重隆の援護を受け、石川晴光が三芦城に復帰しました。
1574年、結城軍が石川郡を制圧し、石川晴光は再び三芦城を失いました。
この時に佐竹軍が石川郡に進出して、結城軍を破りました。
石川晴光は、佐竹義重に臣従することで三芦城に復帰しました。
・・・ここはどこだwww
1577年、浅川義純が城を追放されました。
浅川義純は不信感から佐竹義重に叛旗を翻しましたが失敗。
城は石川昭光に預けられ、矢吹光頼が城代となりました。
1582年、浅川義純が青葉城に復帰しました。
前年、佐竹義重は蘆名盛隆と同盟し、田村清顕を破りました。
これにより、伊達家以南はすべて佐竹家の傘下となりました。
石川昭光の口添えで、上機嫌の佐竹義重に許されたのかもしれません。
1589年、石川昭光が伊達政宗に寝返りました。
伊達政宗が摺上原の戦で蘆名義広を破り、蘆名家を滅ぼしました。
佐竹家が劣勢となると、近隣勢力は伊達政宗方になびきました。
1590年、廃城となりました。
豊臣秀吉が小田原を攻めた際、参陣しないと改易すると言いました。
伊達政宗は粘ってギリギリ間に合わせましたが・・・
伊達政宗に従った勢力は、小田原への参陣は止められていました。
そのため、その後の奥州仕置きでこぞって改易されました。
石川昭光は伊達政宗に仕え、松山城(現宮城県大崎市)に移りました。
浅川義純も石川昭光に従い、伊達政宗の家臣となっています。
その後、石川昭光は伊達家の一門筆頭となっています。
忘れちゃいけませんが、伊達輝宗の実弟ですからねw
所在地:福島県石川郡浅川町大字浅川字城山
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