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大蔵館/東京都世田谷区

次は源義賢の館があった、と伝わる大蔵館です。

大蔵館/前の道
▲館跡周辺

大蔵館は多摩川東岸沿いの丘の上にありました。比高は20m程あり、多摩川やその向こう側(西側)の眺望がよい場所です。現在はすぐ脇を東名高速が通っており、切通しになっています。・・・ちょうど遺構がありそうな所があせる

大蔵館/大六天社
▲大六天社

橋の手前の細道を入ると、すぐに大六天社の小さな祠があります。この祠は、戦国時代に館の主であった石井良寛を祀ったものだそうです。・・・歌人の良寛ではありませんw

ちなみに大六天社というのは、欲界の大魔王・第六天魔王を祀る神社です。第六天とは六欲天の中で最上の天で、他化自在天とも呼ばれています。この世界に生まれた者は、他の天の者の楽を自在に己の楽として受けとることができます。とても居心地の良い世界ということでしょうねw

・・・神社仏閣巡りになりかけてますねあせる


◆歴史◆

大蔵館は源義朝の弟で木曽義仲の父・源義賢または、義朝の嫡男・義平の館と伝わります。・・・ということは平安時代末ごろ、今から900年程前の館跡ですね。

1153年、兄・源義朝が下野守として関東に下向し、関東で勢力を伸ばしました。義朝と不仲になっていた父・為義の命により、義賢も関東に派遣されました。そして秩父重隆の娘を娶って大蔵に館を築き、義朝を牽制しました。

ところが1155年、鎌倉に下っていた義朝の嫡男・義平が大蔵館を急襲。義賢と重隆が討ち取られてしまいました。大蔵館にいた義賢の次男・駒王丸は、畠山重能らの計らいで木曽に逃れました。彼はのちに木曽義仲となり、義朝の子・頼朝と戦うことになります。

歴史的背景を考えると、義賢の館はどうしても埼玉っぽいですね・・・埼玉県嵐山町にも義賢の館と伝わる「大蔵館」があり、土塁等がよく残っているそうです。ここが義賢の館と伝わるのは、近所に「大将塚」(義賢の墓)があるからだそうです。

時代は下り、戦国時代には石井良寛がこの地に館を構えました。「良寛」という名ではありますが、かの有名な歌人ではありません。時代が離れすぎていますw

石井氏は大永年間(1521~28年の間)に京より移り、世田谷の吉良氏に仕えました。これは後北条氏が江戸城を攻略した頃ですね!

吉良氏は関東では家格の高さから大切にされ、戦をした記録がありません。周囲が後北条氏の勢力範囲になると、自然に後北条氏に取り込まれたと思われます。丁度その頃、北条氏綱が娘を吉良頼康に嫁がせていますので。石井氏が多摩川沿いに館を築いたのは、非常時に多摩川西岸に連絡するためかもしれません。

1590年に後北条氏が徳川家康に滅ぼされてからは帰農し、名主になったそうです。・・・それ以上の事がわかりませんあせる


所在地:東京都世田谷区大蔵5丁目(大六天社)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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