2018/10/25
東館/福島県矢祭町
東館は矢祭町役場付近から登った山の上にありました。訪問日は2016年7月30日です。

役場の北から東へ曲がり、そのまま登り切った所にこれがあります。
・・・錆びたメカゴジラではありません

一応展望台です。
舌状台地先端なので、きっと眺めがいいのでしょう。
有料ですw

先ほどの展望台は、ヘアピンカーブの先端にあります。
ヘアピンカーブの内側には、何やら小洒落た建物が並んでいます。
お店でもなく、個人宅でもなさそうで・・・
遠巻きに眺めていました。

展望台から小洒落た建物群辺りが東館の主要部だったようです。
東北地方では、お城のことを「~館」と呼ぶ所がかなりあります。
展望台の周りに横堀やら土塁やらがあるらしいのですが・・・
噂通り、真夏はとても入っていける感じではありません。

東館の構造は、西側に主要部、東側に堀切や物見台がある感じ。
ギターが右に転んだ所をイメージしてみて下さい!
・・・わかりませんね

事前リサーチでは北側からネックを辿ってヘッドに行ける感じ。
ということで北側の城塁、の名残です。
この上に、先ほどの小洒落建物群があります。

奥へ進むと、こんな感じで右上に堀切が見えました

・・・とは言うものの、こちら側からは上がれず。

反対の南側から上がろうと思いましたが、道を進む程に下がる一方。
スタート地点のヘアピンカーブに戻る途中で見つけました。
建物の南側脇から、トイレに上がる階段があります。
城内へはここから上がることが出来ます。

階段の上にはデイサービスの建物がありますが、脇から奥へ進めます。
建物の奥には、遊具が点在する公園がありました。
人気(ひ・と・け)はありませんが、芝が刈られ手入れされています。

奥まで進むと、文字の書かれたモニュメントが

ここに東館について書かれています。

さらに、山道の案内図と思われる図をハッケソ(`☆ω☆´)
表の道の脇に欲しかったですけどw

拡大表示
主要部分を抜き出すと、奥へ進む道はここで正解のようです。
入り込んでからでないと、この図を見られないですけどw

公園の奥にも平坦地が続いています。

その奥まで進むと、突然現れました。
わかります、か?

真横から見た堀切です

見事に尾根をぶった切っています。

振り返って見た所です。
幅10メートル、深さは3メートル程です。

山道が奥へと続いています。
木が多いので草は少なく、思いの外歩きやすくなっています。

途中、こんな感じ堀切の跡があります。

一気に階段で上がる所があり、この上が物見台か!と思いましたが・・・

もうちょっと先みたいです


登り切った所に四阿があります。
ここが物見台のようです。
豊かな木々に囲まれ、展望はご想像の通りです


もうちょっと先に堀切があるというので、頑張りました。

すると、ありました。
目印の赤い橋です。

橋の下に、鋭い堀切があります。
道端の階段を上がってからここまでの所要時間は14分です。
◆歴史◆

ということで、少し補足します。
佐竹氏と抗争があり破却されたのは、天文の頃と思われます。
当時は伊達稙宗・晴宗の親子喧嘩である天文の乱の最中でした。
白河結城氏と佐竹氏が争ったと書かれていますが・・・
両氏とも、天文の乱(1542~48)では伊達晴宗方でした。
つまり、同士討ちですw
その争いを仲裁したのが、白河結城氏が従っていた岩城氏でした。
この争いで白河結城氏は領地の一部を失い、東館を破却したようです。
佐竹氏が進出拠点としたのは、佐竹義昭の代と思われます。
・・・東館が破却されてすぐ後ですけどw
佐竹義昭は1545年に14、5歳で家督を継ぎました。
当初は一族の重鎮が家政を仕切り、成人すると勢力拡大に動きます。
宇都宮氏の内紛に介入し、岩城氏や下総結城氏との争い勝っています。
まだ、小田氏を攻めて小田城を奪い、滅ぼしています。
この頃に北にも勢力拡大を図り、白河結城氏とも争いました。
所在地:福島県東白川郡矢祭町大字東舘字寄居
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