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小谷山城/福島県北塩原村

小谷山城は伊達政宗が会津攻略のために築いた山城です。
別名の檜原城(ひばらじょう)と呼ばれる方が一般的です。
訪問日は2016年8月2日です。

【1】小谷山城

小谷山城の登城口は、檜原湖北岸の道沿いにあります。
檜原湖は明治時代に磐梯山の噴火で山が崩れて出来たのだとか。
したがって、伊達政宗はこの湖の事を知りません。

【2】小谷山城

湖のことはさておき、登城路はこんな感じで整備されています。
途中、道端には小さな堀切がいくつか見られます。
見えます、よね?w

【4】小谷山城

登城口から14分登った所で、道が二手に分かれます。
どちらからも主郭へ行けますが、見られる遺構が違います。
私はまずは右の新道から登りました。

【5】小谷山城

新道は城の東側にある横堀を登る道です。
所々でこんな感じに道が凹んでいます。

【6】小谷山城

こういう所に堀切がありますラブラブ

【7】小谷山城

横堀は主郭まで続いていて、こんな感じではっきり残っています恋の矢

【8】小谷山城

そのまま登り続け、登城口から25分で大きな堀切にたどり着きます。
この堀切は主郭と2郭を隔てるものです。

【9】小谷山城

堀切の新道側に虎口があり、主郭への入口となっています。

【10】小谷山城

主郭の内部です。
ふぅ~んって言った方は、罰ゲームです。
何やるかは自分で決めて下さい(`・ω・´)b

【11】小谷山城

主郭から堀切越しに見た2郭です。
何だかあっちの方が広い感じ。
あっちが主郭じゃないの?なんて思いましたが・・・

【12】小谷山城

2郭から主郭を見ると、土塁に阻まれて中が見えません。
狭いものの、一番高い所にあるのが主郭です。

【13】小谷山城

2郭の中を下ると、本来の登城路である旧道を通ることになります。
2郭から旧道への出口には、幾重にも複雑な虎口があります。

【14】小谷山城

会津攻めの拠点とはいえ、守りの事もちゃんと考慮されているようです。

【15】小谷山城

2郭下の虎口は、とにかく複雑な構造をしています。
3、4回うねうねと土塁の間を行ったり来たりを繰り返します。
こういうの、大好きです恋の矢恋の矢恋の矢

【16】小谷山城

虎口を過ぎると、横堀のないまっすぐな道となります。
とはいえ、新道同様に所々堀切が横切っています。


◆歴史◆

1585年、伊達政宗により築かれました。

1584年、会津の領主・蘆名盛隆が、黒川城内で殺されました。
蘆名盛隆の生後1か月の子である亀王丸が次の蘆名家当主になりました。
伊達輝宗は亀王丸の後見となり、家督を嫡男・伊達政宗に譲りました。

家督を継いだ伊達政宗は、父の政策を根底からひっくり返し始めました。
蘆名家では伊達政宗に対する警戒心が高まり、柏木城が築かれました。

翌1585年、伊達政宗は田村郡の大内定綱を攻めました。
大内定綱は蘆名家に和睦の仲介を依頼したのですが・・・
伊達政宗は蘆名家が大内定綱に肩入れしたとして、会津に侵攻しました。
この時に会津侵攻の拠点として築かれたのが檜原城(小谷山城)です。

伊達軍は、蘆名家が築いた柏木城を抜くことが出来ずに撤退。
会津で伊達軍に寝返った松本備中は、蘆名軍に討ち取られました。
伊達政宗は檜原城に後藤孫兵衛を城代として置きました。

1589年、伊達政宗が蘆名家を滅ぼしました。

1586年末に、蘆名亀王丸が疱瘡のため2歳で没しました。
よく「3歳」と書かれていますが、数え年なので今風に言えば2歳です。
1584年10月7日生まれ、1586年12月31日没ですからw

蘆名家には跡継ぎが居なくなり、佐竹義重が次男に蘆名家を継がせました。
周辺勢力には根回しをしたのに、伊達政宗には何も知らせませんでした。
そのため、佐竹義重と伊達政宗の関係が決定的に悪くなりました。

1588年末、猪苗代盛国が猪苗代城を乗っ取って伊達方に寝返りました。
自分で自分の城を?なんて思いましたが・・・
嫡男に譲った家督を「やっぱやーめた!」と奪い返したのでした。

1589年春には、大内定綱と弟・片平親綱が蘆名家から寝返りました。
大内定綱は戦上手で、片平親綱の城は会津攻略にはいい場所にありました。
この時期、田村郡には岩城・相馬連合軍が侵攻して来ていました。
しかし、片平親綱が寝返ると、伊達軍は行き先を会津に変更しました。
伊達軍は猪苗代湖北岸の摺上原で、蘆名軍と全面対決となりました。

兵力はほぼ互角だったのですが・・・
蘆名軍では蘆名四天の内、戦ったのが金上盛備だけという有様でした。
蘆名義広が家督を継いでからは、佐竹家臣が蘆名家中を仕切っていました。
そのため、旧来の蘆名家臣の多くは、出陣はするものの傍観していました。

総崩れとなり敗れた蘆名義広は、黒川城を捨てて常陸に逃げました。
そのため会津蘆名家は滅び、伊達政宗の領地となりました。
檜原城は会津侵攻の拠点だったため、役割を終えました。
檜原城主だった後藤孫兵衛は、北方城主へと転じました。
北方城はググっても出てきませんが、喜多方にあったと思われます。

その翌年、伊達政宗は豊臣秀吉により会津を没収されました。
1587年に発令した惣無事令に反したという理由です。
それでも改易されない所が、伊達政宗の凄い所だと思います。


所在地:福島県耶麻郡北塩原村大字檜原字西吾妻国有林

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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