2018/10/21
柏木城/福島県北塩原村
柏木城は蘆名氏が伊達政宗の侵攻に備えて築いたお城です。訪問日は2016年8月2日です。

柏木城への道は、案内があってわかりやすいです


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ここに説明板と案内図があります。
ちょっと早い気がしますが・・・
これが最初で最後ですw

せっかくなので、イタダキます(*'▽')
案内図は道順と縄張図を足しており、とても斬新です!
道順だけだとスペース空き過ぎたからでしょうか。

せっかくのせっかくなので、縄張図もイタダキます(*'▽')
案内図では南北逆でしたが、北を上にしておきます。
城内への入口は南西(図の左下)にあります。

案内図に従って大久保集落に着くと、ここにも案内があります。
案内図ではここから「徒歩」と書かれていたので、バイクを降り歩きました。
結果論ですが、バイクだったらそのまま乗って行っても良かったです。

「徒歩」と書かれていたのは、車を停める場所が無いからです。
城跡まで舗装道が続きますが、農道のため軽1台通るのがやっとです。
途中こんな景色があり「おっ!」ってなりました。
手前が堀跡で、土橋の向こうに虎口があるように見えませんか?
目も病んで来ましたでしょうか・・・


城跡はもうちょっと先で、この写真の奥からが城域です。
この写真の手前側が少し低くなっており、堀跡じゃないかと思います。

城内への入口は明示されていませんが、何となくわかります。
何となくです。
当たりでしたけど(*´▽`*)

城塁には石垣の名残が見て取れます。
廃城の際に徹底的に壊されたようです。

城内に入ってすぐに、城塁が見えました。

上がった所は横堀っぽい帯曲輪となっています。

南西の曲輪から帯曲輪に入る虎口を振り返った所です。
虎口に石垣が使われています。

帯曲輪を奥へ進むと、石積みで区画された箇所があります。
貼り紙には武器庫か何かがあったと書かれていました。

奥へ進むにつれて、外周の土塁が高くなっていきます。

土塁だけでなく、内側の城塁も高くなっていきます。

一番奥まで進むと、堀切があります

堀切の向こう側は丸馬出となっています。

せっかくなので、横顔を拝見


丸馬出の土塁の外側にも、浅い堀があります。

主郭側に戻ると、高い城塁から入る虎口があります。
ブルーシートが掛けられていましたが、ここにも石垣が使われています。

主郭内部です。
かなり広いです。
へぇ~なんて言わないで下さい♡

主郭南側の虎口です。
土塁は綺麗に残されています


その外側です。
この時は発掘調査中で、あちこちにブルーシートがありました。
役場様はこの辺は熱心なようで、ググると役場様のサイトが出てきます。
発掘調査の結果や文献など、超詳しいのでお勧めです

◆歴史◆
1584年、伊達政宗の侵攻に備えて築かれました。
10月7日、蘆名盛隆が黒川城内で寵臣・大庭三左衛門に殺されました。
痴情のもつれが原因だそうです

蘆名盛隆はこの時まだ23歳でしたが、生後1か月になる子がいました。
この時から、南北の大勢力が蘆名家を巡って争い始めました。
先手を打ったのが南の佐竹義重で、亀王丸(0)を蘆名家当主に推しました。
蘆名家中には親佐竹派の家臣も多く、亀王丸を操ろうとしたのでしょう。
一方、北の伊達輝宗は、先代の蘆名盛氏に養子を送る約束をしていました。
しかし、その時は二階堂氏からの養子である蘆名盛隆が家督を継ぎました。
今度こそ!と意気込んだものの、佐竹義重に先手を打たれてしまいました。
そこで、伊達輝宗は亀王丸の後見となりました。
蘆名盛隆の正室である亀王丸の母親は、伊達輝宗の妹でした。
伊達輝宗は会津へ移るために、家督を伊達政宗に譲りました。
越後侵攻の野望のため、伊達・蘆名・最上連合を強化する意図でした。
ところが、家督を継いだ伊達政宗が外交政策をひっくり返しました。
伊達政宗は、早速越後の上杉景勝と講和。
そして、伊達輝宗が築いた近隣勢力との関係を壊し始めました。
蘆名家中では伊達政宗に警戒するため、勢力境に城を築きました。
これが柏木城です。
柏木城には150騎の武者を配置し、三瓶大蔵を城代としました。
1585年、伊達軍に攻められました。
伊達政宗は、田村郡の大内定綱に臣従するよう迫りました。
大内定綱がこの要求を突っぱねたため、伊達軍に攻められました。
大内定綱は伊達家に近いとされた蘆名家に仲介を依頼しましたが・・・
蘆名家が大内定綱に加担しているとして、矛先が蘆名家に向きました。
伊達政宗は5月に蘆名領の最北端に檜原城を築城。
関柴城の松本輔弘を内応させ、会津への進軍の構えを見せました。
この時は山間地だったため大軍を展開出来ず、伊達軍が各地で敗退。
松本輔弘は蘆名軍に追いつかれて討死しました。
伊達政宗は10月、大内定綱に味方した二本松の畠山義継を攻めました。
畠山義継は伊達政宗の無理難題を呑んで和睦に応じました。
この和睦は伊達輝宗の仲介により成立しています。
その謝意を伝えるため、畠山義継が丸森城を訪ねました。
会談後、畠山義継一行が見送りに出た伊達輝宗を拉致。
畠山義継一行は、伊達輝宗を盾にして自領へ帰ろうとしました。
これに追いついた伊達軍が伊達輝宗ごと銃撃したのはこの時です。
1587年、亀王丸の没後、蘆名義広が当主となりました。
亀王丸が疱瘡のため、年末に2歳で没しました。
当然跡継ぎはおらず、家督を巡って伊達政宗と佐竹義重が再び対立しました。
伊達政宗は父同様、弟の小次郎を蘆名家当主にしようとしました。
しかし、最終的には佐竹義重の次男・義広が蘆名家当主となりました。
このときに佐竹家から家臣団が送りこまれ、蘆名家中を掌握。
従来の宿老達を次々と失脚させたため、蘆名家中は真っ二つに割れました。
蘆名家と伊達家の関係も完全に切れました。
1588年、郡山合戦で蘆名・佐竹・相馬連合軍が伊達政宗に敗北しました。
1589年、蘆名家が滅びて廃城となりました。
伊達政宗が再び会津に攻め込みました。
檜原城から攻め込む動きを見せた伊達軍でしたが・・・
家督争いに付け込んで猪苗代盛国を寝返らせ、東から攻めてきました。
決戦地となった摺上原では、蘆名四天の富田・松本・平田隊が動かず。
富田隊に至っては戦わずに退却を始め、会津へ帰る橋を落としました。
富田隊に続いて二階堂隊、石川隊も勝手に退却。
蘆名軍は総崩れとなり、蘆名義広は黒川城ではなく常陸へ逃げました。
摺上原での敗戦の知らせを聞いた三瓶大蔵は、城に火を放って退却。
蘆名家は滅びて、会津は伊達政宗の支配地となりました。
1590年、会津は蒲生氏郷の領地になりました。
豊臣秀吉が小田原城を攻め、後北条氏を滅ぼしました。
伊達政宗はギリギリ参陣に間に合い、改易だけは免れました。
しかし、惣無事令を無視して得た会津領は没収。
会津には蒲生氏郷が入り、黒川城を改修。
この時に地名も若松と改めました。
伊達政宗に備えて会津に入った蒲生氏郷ですが・・・
柏木城は使わなかったようです。
所在地:福島県耶麻郡北塩原村大字大塩字柏木城
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