2018/10/20
綱取城/福島県北塩原村
綱取城は会津盆地の北辺にある山城です。訪問日は2016年8月2日です。

城跡への登城口は、中学校の脇から山に入っていきます。
その中学校が一中です。
ちょっと地元民ぶりましたが、縁もゆかりもございません(`・ω・´)

上の写真の場所で回れ右!をすると、登城口があります。
山に入っていく道に、わかりやすく標柱と説明板があります。
これらが無いと、すぐに終わる空地への道に見えなくもありません。

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上の写真の説明板に載っている図です。
図はちゃんと端まで載せていますが、登城口切れてます。
たぶん、一番下の真ん中よりちょっと左だと思います。
上のほうのウネウネ具合が戦意をそそります


登城路はこんな感じで、普通の山道です。
普通、ですよね?
遊歩道程ではないものの、時々人が歩いている感じです。

真夏に訪ねたので、草がかなり茂っていました。
こうやって堀や土塁が見えたものの・・・
造りがどうとかまでは把握出来ず


たぶん、虎口ですよね?

という感じで、とりあえず一番高い所まで登ってみました。

その脇がこんな感じです。
帯曲輪?か横堀?が見えます。
ちょっと下りて確かめよう!とはなりませんでした

◆歴史◆
説明板の文章をベースに攻めてみます(`・ω・´)
1495年頃、松本勘解由により築かれました。
松本氏は信濃源氏を祖とし、早くから会津に土着した一族です。
蘆名家中では四天の宿老と呼ばれる超大物一族でした。
しかし、謀反の記録も数多く残る一族なのだそうです。
この年代だと・・・
1492年、松本藤右衛門(叔父)らが乱を起こす
1495年、松本備前(父)が謀反を起こす
1498年、蘆名盛高が松本備前、松本大学頭・小四郎兄弟、松本右馬允を討つ
1500年、蘆名盛高が綱取城に逃げ込んだ松本対馬(叔父)を討つ
といった感じです。(武家家伝様参照、カッコの中は松本勘解由との続柄)
松本氏って一応蘆名四天の宿老なんですけど・・・

綱取城主の松本勘解由も登場しますが、討たれていないようです。
その後も四天の地位を保つようですが、誰が当主なのか???です

1505年、蘆名盛高・盛滋父子の争いが始まりました。
蘆名盛滋は、支援者である松本勘解由の綱取城に立て籠もっています。
この争いに敗れた蘆名盛滋は、伊達家を頼って長井に逃れています。
翌年、蘆名盛滋が会津へ攻め込みますが、和睦しています。
1585年頃まで使われていたようです。
『会津要害録』には、柏木城とともに難攻不落の城として登場します。
柏木城は綱取城の東北東約3kmの所にあった、対伊達家の城です。
これが1585年頃の事なので、綱取城も存続していた事になります。
城主または城番が誰だったのかは?です

1584年に蘆名盛隆に滅ぼされた松本太郎が、勘解由の孫っぽいです。
「図書介」しかヒントが無いのですが・・・
松本図書介が居たのは、会津盆地南端の船岡城でした。
綱取城からはかなり離れています。
柏木城が蘆名家直属だったので、当時の綱取城もそうだったかもしれません。
その蘆名盛隆は1585年に黒川城内で殺され、以後蘆名家は衰退しました。
所在地:福島県耶麻郡北塩原村大字北山字要害
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コメント
無題
2018/10/20 16:11 by トシraud URL 編集
Re:無題
100名城でマダニに刺されたのにw
年末に道もわかんない城跡行ってきます♪
2018/10/20 16:40 by なぽ URL 編集