2018/10/16
鎌刃城/滋賀県米原市
鎌刃城は国人領主・堀氏の城でした。昨年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年9月23日です。
前回(2012年)は「とにかく楽に」石垣目当てで訪ねました。
そのため、山上の林道から本丸を見ただけでした。
その後、いろいろ拝見すると、堀切や石垣があるらしく・・・
チョー気にはなっていました。
そして、今回の続日本100名城選出とスタンプ設置。
いろいろと条件は整いました

スタンプ行脚の旅なので、大体の所は押せる時間に限りがあります。
しかし、ここはいつでも押せるという事で、早朝に訪ねました。
2箇所目をスタンプ押す時間に回り切り、そして3つ目へ!作戦です。

という事で、今回は麓から登ることにしました。
はじめは下の地図の赤い登城路から攻めます。
駐車場は番場集落にある橋の脇です。
文章での説明は難しいので、下の地図をご参照下さい

登城開始が朝の6時半という事で、まだ誰も来ていません。
普段の城跡巡りでは遅い方ですが・・・
スタンプ押せる時間があるので、この時間が丁度よいという計算です。

駐車場から南側の道です。
左へ入る道には、さっそく城跡への案内があります。
奥には大きく「鎌刃城跡」と書かれた看板と説明板があります。

上の写真で、左へ入る道の所にある案内です。
ここからも登城できますが、先にスタンプをゲットするためスルー。
帰りにこちらの道から下りて来ました。
下の地図の青い登城路がこっちのルートです。
後ほど紹介します♪

2つ上の写真で奥に見えた看板です。
ここでは3キロと書かれていますw

上の写真に写っている説明板です。
城跡まではかなり距離がありますが、すでにこのような物が。
期待で胸がはちきれそうです


スタンプのあるカフェを目指し、道を進みます。
この街並みの左側にそのカフェがあるのですが・・・
事前に見たストビューではよくわからず。
目を凝らしながら、通り過ぎないよう慎重に進みました。

しかし、そんな心配は無用でした

ストビューはちょっと古く、続100名城に選ばれる前のものです。
今はすぐにそれとわかる幟が表に立てられています。
(奥の幟に「鎌刃城」と大きく書かれています


目の前に来ても「カフェ」とはわかりませんでしたが・・・
幟のある壁際に、ちゃんとありましたヾ(*´∀`*)ノ
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | カフェ源右衛門の前 所在地 滋賀県米原市番場1844 押せる時間 いつでも可 |
ここにはスタンプだけでなく、秀逸なパンフレットもあります。
制作協力(のお願い)があり、100円払って来ました。
1万円札入れたい気持ち「だけ」はありましたけど

城跡を散策した時に、このパンフレットがとても役立ちました。

スタンプをゲットし、今度は城跡へ。
源右衛門さんから少し進んだ所に案内があります。
・・・見えますか?

カーブミラーの所です。
ここも2.0kmです。
「約」ですからw

矢印に従って、素直に左を向いて下さい。
こんな光景が見えますが、この細道に入って行きます。
ここから下の地図の赤い線で示した登城路スタートです。

その先に、高速道路をくぐるトンネルがあります。
パッと見では通れなさそうですが・・・
獣除けのフェンスなので、開けて通れます。
チェーンの巻き方に性格出るかもしれません


トンネルから先は、次第に山道っぽくなって行きます。
要所要所に案内が出ているので、迷子になる心配はありません。
平坦な道が続き、さぁ山に入るゾという所にこれがあります。
真正面からの登城、久しぶりですwww

ちょっと歩いたけど、まだ先だよなぁなんて思っていましたが・・・
登城路が細い尾根をぶった切って向こう側へ。
これって、切通しというより普通に堀切ですよね?
堀切大好きな私は、早くも現れたこの子に興奮です


せっかく堀切で反対側に回った登城路ですが・・・
すぐに尾根をまたいで元の側に。
そしてそのままゆるゆると登り続けます。
傾斜は緩いのですが、ずっと続くと流石にバテ気味に。

一直線の登り坂に飽きた頃、道は鋭角に曲がって更に上へ。
九十九折れでも真っ直でも、登る時ってだいたいこんな角度ですよね?

ただ、この小さな変化が大きな変化の始まりです。
鋭角に曲がって間もなく、窪みから尾根上に出ます。
これって虎口ですよね?

かなり大きな変化に、疲れは吹っ飛んでさらに登ります。

反対側に回った尾根に変化が無いか見つつ登り・・・
正面にこの案内が現れます。
いきなりですが、大堀切です


下から見上げると、尾根の稜線が確かに凹んで見えます。

案内に従って登ると、かなり大きな堀切です。
元々傾斜がキツクなった所を掘った感じに見えます。

大堀切の奥まで進むと、今度は大石垣の案内が。
100メートルなら近いと、横移動開始です。

100メートルだからすぐだよね?で辿り着いた所です。
足元に案内があり、どうやらここが大石垣のようですが・・・

石垣にコケが生えて目立たなかっただけのようです。
説明板によると、幅は30メートルに及ぶ規模だそうです。

大石垣から大堀切に戻り、順路に従って登ります。
いよいよ鎌刃城の主要部に斬り込みます。
写真は大堀切を登り、北曲輪群に入る直前の城塁です。

ようやく辿り着いた北VI曲輪の大櫓跡です。
木で組んだお手製の展望台が「おいでおいで」と声を掛けて来ます。
・・・本当に聞こえた訳ではありませんけど

なぜか意固地になって、その誘惑を振り切りました。

大櫓跡から見た主要部方向です。
北曲輪群の端から3つの曲輪は、細長~い曲輪が連なります。

北曲輪の東側に、コの字形の石の列がありました。
石は階段状に積まれている所もあり、虎口でした。
虎口の外側には道があると思ったのですが・・・
そのまま急斜面になっていました。
知らずに慌てて飛び出すと、そのまんま落っこちますw

落っこちないよう端に寄って撮るとこんな感じです。
・・・虎口じゃなかったかもしれませんね


北曲輪を登って行くと、だんだん幅が狭く、段差も高くなります。
ここは北Ⅱ郭で、もう1つ上にも同じような曲輪があります。

そして、一番上まで登った所が主郭です。
丸くて大きく、低い土塁で囲まれています。
真ん中より北寄りに、いくつか標柱があり、城址碑もあります。

主郭で一番の見どころは、北の端にある虎口です。
北曲輪にあったものよりも石積みが高いです


ここでも落ちない程度に端に寄って撮ってみました。
こちらは正真正銘、石段のある虎口です

真後ろは2メートル程の段差になっていますけど。
2012年に来た時は、ほぼここしか見ていませんでした


さらに奥へ進むと、土塁が横一線にあります。
主郭内部からの高さは1メートル程です。

土塁の外側にあるものといえば堀切です。
主郭内部からは外側が見えなかったので、ちょっと期待しました。
こんな感じで、ここにはありませんでした


主郭の先は南曲輪で、主郭のすぐ隣は三角形の細長い平坦地です。

主郭から南I曲輪に下りた所に、林道への道があります。
下の地図にある緑の登城路が林道に通じる道です。
後ほど紹介します♪

南I曲輪を進むと、うっすらと痕跡的な堀切があります♪

そこから西側の下を見ると、かなり長い帯曲輪があります。
図では特に名前が書かれていませんが、この先に西曲輪群があります。

うっすら堀切の先にあるのが南Ⅱ曲輪です。
ここも真ん丸な感じで、一番奥に土塁が見えます。

土塁は人の背の高さ程あり、手前に説明板と図があります。
今度こそ「土塁の向こう側」を見てみたい!

ありました



見事なザックリ堀切様です。

ここから先は、細尾根に断続的に堀切が続きます。

山城らしい堀切を見た所で引き返し、林道までの道を辿りました。
これから下の地図の緑の登城路を紹介します♪
主郭の土塁脇から案内に従い進むと、細尾根の脇にある道に出ます。
この細尾根が、南曲輪から先に伸びていたヤツです。

下から見上げると、時々こんな感じで堀切様が見えます


さらに進むと細尾根までの高さが無くなってきて・・・
道が堀切を通ります。
2012年にもここ通ったハズなんですけどね?
記憶にございません


ここから先は尾根をたどります。

数十メートル進むと、林道に出ます。
前回はここから主郭まで見て来ました。
この林道は、米原ジャンクション脇から車で来れます。
ここから城跡を見るのが一番時間がかかりませんが・・・
「崩れた」とか「復旧した」という噂がチラホラ。
車だと離合が大変な個所もあるらしいです。
私は前回バイクだったので、あまり気にしていませんでした


林道からの緑の登城路への入口はこんな感じです。

緑の登城路から主郭・北曲輪群を通って戻りました。
そして、虎口?とはしゃいだここが、青い登城路との分岐です。
青い登城路の方には「蓮華寺」の案内が出ています。

分岐してから割とすぐに、細尾根道が超細尾根道になりました。
超細尾根道の麓側には「土橋」の案内がありました。
この道は、人工的に作り出されたものだったんですね!

その先は、堀底のように窪んだ道が続きます。
実は、青い登城路はあまりお勧め出来るコースではありません。
1つは、足元にコケが生えている個所がかなりあってとても滑ります。
私も1回、絵に描いたように見事な尻餅をつきました。
だから、コンビニ行くたびにお手拭きくれるんですよね



もう1つは、蜘蛛の巣がたくさんありました。
あまり人が通らないようで、何度も顔面やられました。
目の前で慌てる蜘蛛を見て、眼鏡を投げ捨てそうになりました




足元のコケにおびえつつ、ようやくここまで下りて来ました。

獣避けのフェンスを開けて、スタート地点の駐車場が見えました。
ここは熊さんが出ると、あちこちに看板が出ていました。
これから訪ねる方は、熊避けグッズを持参してください

◆歴史◆
築城年ははっきりしません。
応仁の乱(1468~78年)頃に築かれたと考えられています。
当時は近江守護・六角家中で家督を巡る争いの最中でした。
大雑把に書くと、
・次男が当主と兄を討つ
→その次男が幕府に討伐される
→三男が幕府を後ろ盾に家督を継ぐ
→一門筆頭の京極氏が次男の子を立てる
といった感じです。
この頃の京極氏は、六角家から独立する過渡期だったのでしょうね。
鎌刃城の初見は1472年です
今井秀遠が堀次郎左衛門の鎌刃城を攻めたのが、史料での初見です。
今井秀遠は六角氏方で、堀次郎左衛門は京極氏方でした。
この2年前、京極氏の大黒柱・京極持清が没したためと思われます。
六角氏から近江守護の座を奪い、主導権を握っていたのが京極持清でした。
あまりに京極持清が圧倒的だったため、没後に京極家で家督争いが起きました。
劣勢だった六角氏ですが、家督争いがひと段落して攻勢に出た頃です。
以後の京極氏は、北近江の領主として六角氏から独立します。
鎌刃城はその境目にあるため、たびたび争奪戦が起きました。
近在の国人である今井氏や堀氏も、六角氏と京極氏の間を行き来します。
1523年、浅井氏が北近江の領主となりました。
京極家で家督争いが続き、嫌気が差した国人衆により追放されたためです。
当初は浅見貞則が盟主でしたが、専横が目立ち追放。
その後釜として、浅井亮政が盟主となりました。
その後、京極氏が戻りましたが、当主の座に戻ることは出来ませんでした。
鎌刃城主と見られる堀氏は浅井家に属しました。
一方の今井氏は、浅井家と六角家の間で翻弄されました。
当主が切腹させられたり、人質が殺されたり・・・
勢力境の国人って、本当に気苦労が絶えないですね。
1570年、堀氏が織田信長に寝返りました。
織田信長が朝倉義景を攻めたため、浅井長政との間に亀裂が走りました。
越前に攻め込んだ織田軍の背後に、朝倉氏の援軍として浅井軍が迫りました。
そのため織田信長は京へ逃れましたが、すぐに報復のため近江に攻め込みました。
そこでは小谷城は攻めず、喉もとの横山城を降して木下藤吉郎を置きました。
木下藤吉郎は周辺の国人衆を次から次へと調略。
鎌刃城の堀氏も織田方に寝返りました。
1571年、浅井軍に攻められますが、持ちこたえました。
美濃との境を塞ぐために配置した堀氏が寝返ってしまったのは、浅井氏には大打撃でした。
また、目の前の横山城を拠点に調略を仕掛けまくる木下藤吉郎は目障りでした。
そのため、浅井軍は鎌刃城の攻略を試みました。
鎌刃城を落とせば横山城は袋の鼠状態になるからです。
浅井軍は5千の兵で攻めたそうですが・・・
木下藤吉郎は横山城の守備を竹中半兵衛に任せ、自ら鎌刃城救援に向かいました。
ここで鎌刃城を守り切った事が重要だったと思います。
その後も木下藤吉郎は国人衆への調略を進め、1573年、ついに小谷城を攻め落としました。
1575年、廃城になったと思われます。
浅井氏滅亡後も鎌刃城は機能していたと考えられています。
それは、南近江の六角氏が依然としてゲリラ戦を展開していたからです。
1574年、織田軍が六角氏の鯰江城を攻め落とし、六角義賢が行方知れずとなりました。
これで近江での攻防戦はひと段落しました。
しかし、その直後に堀氏が改易されました。
これは越前での一揆鎮圧の際、堀直房が勝手に一揆軍と和議を結んだからでした。
このため羽柴秀吉は堀直房を改易しました。
堀直房を逃亡しましたが捕まり、一族ともども処刑されました。
以後、鎌刃城が史料に登場しなくなるため、この時に廃城になったと考えられています。
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