2013/06/23
喜多見屋敷/東京都世田谷区
喜多見屋敷は江戸氏の子孫・喜多見氏の館で、現在の氷川神社・慶元寺辺りにありました。
訪問日は2013年5月5日です。

▲氷川神社
氷川神社は740年に創建され、素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀っています。元々は多摩川近くにありましたが、延文年間(1356~60)に多摩川洪水のため流失しました。1570年に江戸頼忠により現在地に再建されました。

▲慶元寺の三重の塔
氷川神社の前の細道を通って墓地の脇を通っていると、三重の塔が見えました。世田谷区にもあったんですね、お寺の塔!・・・なんだかだんだんお寺&神社巡りみたいになってきました


▲慶元寺
細道の先はパッと広い空間があり、慶元寺の本堂に出ました。慶元寺は1186年、江戸重長が江戸城内に開基した天台宗のお寺でした。室町時代中頃に江戸氏が当地に移った際に、浄土宗のお寺として移されました。
1593年に喜多見氏初代・勝忠が再建・・・てことは、小田原征伐の際に焼けたのでしょう。江戸時代には幕府から10石の御朱印も拝領しました。江戸氏改め喜多見氏の館は、慶元寺の前にあったそうですが・・・今は跡形もありません。
◆歴史◆
喜多見屋敷は、江戸氏とその子孫である喜多見氏が暮らしていた館です。江戸氏は平安時代末、平家討伐の功として武蔵七郷を与えられました。木田見郷はその中の一郷です。
江戸氏はその名の通り江戸城を本拠地としていましたが・・・室町時代に太田道灌により江戸城を奪われ、木田見の地に移りました。以後、江戸氏の本拠地は木田見となります。
戦国時代には後北条氏に属し、世田谷・吉良氏の家臣となりました。1590年に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、吉良氏とともに下総へ逃れました。その後は徳川家康に仕えるようになり、木田見の地を安堵されました。この時に地名・姓ともに「喜多見」に改めています。
江戸時代の喜多見氏は旗本として家名を保ちましたが・・・徳川綱吉の時代には側用人となり、2万石の大名となりました。しかし、1689年に突然改易され、喜多見氏は所領を没収され、屋敷は廃されました。
改易の理由は・・・
・従兄弟の家で刃傷沙汰があった
・生類憐れみの令について諫言した
などが考えられますが、現在の所は不明です。
所在地:東京都世田谷区喜多見4丁目(慶元寺・氷川神社)
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コメント
喜多見藩
2016/03/23 06:09 by 筏師 URL 編集