2018/09/17
古宮城/愛知県新城市
古宮城は作手にあった武田軍の三河侵攻の拠点でした。訪問日は2018年9月15日です。

愛知県には2014年の夏休みに本格的に侵攻しましたが・・・
古宮城の存在には気づかず、近くの亀山城だけ見ていました。
亀山城は亀山城でとても素晴らしい城跡でした。
昨年4月に「こんな凄い城跡あったんだ」と軽くショック。
スタンプ設置に合わせて訪ねて来ました。
駐車場は、白鳥神社の鳥居を通り過ぎた所にあります。
本当はバイクで行く予定でしたが、悪天候のためレンタカーです。

城跡の南側には白鳥神社があります。
ただ、城の名前が地名でないので、元々は神社の山だったかもしれません。

山に入る道から見上げると、既に土の造形が見えてテンション上がります


神社から登り、最初にたどり着いた平坦地です。
左側が大きな竪堀、右側に主郭の虎口があります。
虎口の陰に主郭と二の曲輪を隔てる大きな堀切があります。
パッと見では気づきませんが、実はこれ、土橋でした


主郭の虎口です。
土塁で小さな空間を作り出し、桝形虎口となっています


枡形虎口から見た主郭内部です。
いきなりですが、真正面の土塁が郭を左右に隔てています。
古宮城の特徴ですが、主郭と二の曲輪は中央が土塁で隔てられています。
そうとは知らずに見ると、どっちへ進めばよいのか迷います。

とりあえず、主郭の外周を反時計回りに進みました。
周囲は急斜面で、眼下には数多くの腰曲輪が見えました。

北側まで来ると、眼前に大きな竪堀(北)が現れました。
古宮城一番の見どころです

主郭と二の曲輪を隔てる堀が、そのまま麓まで続いています。
その脇に寄り添うように、登り土塁が続いています。

主郭と二の曲輪を隔てる堀切です。
資料館で頂いたパンフには「一城別郭式」と書かれていました。
そこまで大げさに分断されてはいませんけど・・・w

主郭に続いて、二の曲輪も外周を歩きました。
二の曲輪内部も主郭同様、真ん中を土塁で隔てられています。

二の曲輪から見下ろすと、すぐ下に横堀が付けられています。
その下にも、複雑に横堀が巡らされています。
こちらが街道に面しており、敵から攻撃を受ける側となっています。
馬場さんが平山城を造ると、こんな感じになるんですね


ということで、二の曲輪のすぐ下にある横堀です。

横堀は大竪堀にぶつかり、そのまま麓につながっています。
こちら側の登り土塁は、途中までしかありません。
この左側に、無数の横堀が巡らされて不規則な迷路を形成しています。

うまく表現できませんが、こんな感じで横堀が段になっています。

大竪堀に沿って下り、主郭側を見て来ました。
こちら側には目立った横堀は無く、無数の腰曲輪があります。
写真は一番下の段で、所々に段差があって曲輪を形成しています。
この感じ、愛知の小牧山城と似ています。

最下段の曲輪の外周は、こんな感じで土塁で囲まれています。

主郭側から二の曲輪側を見ようと戻りました。
下から見上げる大竪堀は、結構迫力あります


横堀は不規則で、突然行き止まりになったりします。
下から2番目の横堀も、上には行かずにブツっと終わります。
駐車場に戻ろうと横移動を試みたのですが・・・
何度もそんな事を繰り返し、結局二の曲輪まで登り直すこととなりました。

最初に登った時に気づかなかった、南側の大竪堀です。
1つの小山を2つの竪堀で分断しており、スケールが半端ないです




神社左脇の下から見上げた大竪堀(南)です。

神社の前には説明板があり、その脇にこれもあります。
ちゃんと城跡にあるのが、とても親切に感じます。

ということで、スタンプ設置場所の作手歴史民俗資料館です。
到着したのが15時10分で、閉館時間を過ぎていました。
館内は消灯され薄暗いものの、ドアが半分開いていました。
ダメ元で突撃すると、快くスタンプを押させてくれました。
案内にあったコンビニですが、注意すべきは24時間営業ではありません。
まぁ、真夜中に訪ねる方が居るとも思えませんが・・・w
このコンビニに立ち寄ってみたら、ちゃんとスタンプありました。
資料館が休館の時だけでなく、いつでも押せます^^
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 新城市歴史民俗資料館https://www.google.com/maps/d/view?mid=1ztL9La3wDBHuJCIKGqG6m-paVPg&ll=34.97716,137.42361&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 開館時間 10時~15時 休館日 火曜日(祝日の場合翌平日)、12/29~1/3 入館料 無料 |
ヤマザキショップつくで店https://www.google.com/maps/d/view?mid=1ztL9La3wDBHuJCIKGqG6m-paVPg&ll=34.97878,137.4242&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 営業時間 7時~20時半 休業日 年中無休 |

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作手歴史資料館で頂いたパンフレット裏面に載っている縄張図です。
タダで頂いたものなのでいいとは思いますが

城内を散策した時に、これがあると無いとでは大違いです。
ありがとうございました

◆歴史◆
1571年または1572年に武田信玄により築かれました。
武田信玄は、1568年に今川氏真との同盟を破棄して侵攻を開始。
それに伴い、徳川家康に従っていた奥三河の国人衆を調略しました。
元々は徳川家康が今川領に侵攻していたので競合することに。
そんな中、武田軍の三河への侵攻拠点として古宮城が築かれました。
縄張は築城の名手・馬場信春により行われました。
1573年に一度落城しました。
武田信玄が没すると、作手の領主・奥平貞能が徳川家に寝返りました。
奥平貞能は古宮城から約1km南の亀山城を本拠としていました。
この調略は領地倍増と徳川家康の娘を嫁がせるなど、破格の条件でした。
これが大きな一手となり、後の武田家滅亡のきっかけとなります。
古宮城の武田軍が亀山城を攻めましたが、援軍の徳川軍により古宮城が陥落。
のちに武田軍が古宮城を取り戻すなど、緊迫した状況となりました。
奥平貞能は、徳川軍が武田軍から奪った長篠城へ移りました。
1575年、廃城となりました。
武田軍が長篠城を攻めましたが、織田・徳川連合軍に敗れ壊滅。
武田軍は奥三河での勢力を維持出来なくなり、古宮城は放棄されました。
所在地:愛知県新城市作手清岳
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