2018/08/23
岡豊城/高知県南国市
岡豊城は長宗我部氏代々の城でした。訪問日は2018年8月5日です。

岡豊城の入口にある歴史民俗資料館です。
かなり大きな建物で、ここに続日本100名城スタンプがあります

続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 高知県立歴史民俗資料館 開館時間 9時~17時(入館は16時半まで) 休館日 12月27日~1月1日 入館料 大人460円、高校生以下無料 |

その足元は石垣風の擁壁になっていて、ちょっと壮観です。
ただ、あまりにデカ過ぎて、城域をかなり破壊してない?って感じます。

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駐車場にあった案内図をパクリます

左端にあるのが歴史民俗資料館です。
城内を歩いてみた感じでは、こっち側が城の大手口っぽいです。
元々は、その入口の厳重な構造があったと思われます。

階段を上がった資料館の玄関前には、威勢のいい銅像があります。
周りがチョット寂しいのですが、イケメンさんですw
その足元に「長宗我部元親飛翔之像」とあります。

飛翔之像から山に入って、割とすぐに平坦地に出ます。
ここが二ノ段です。
四国では曲輪を〇ノ段と呼び、主郭を詰ノ段または詰と呼ぶ所があります。
たぶん昔からそう呼んでいた方言のようなものだと思われます。
私、こういうの大好きです


二ノ段の入口には堀切があり、その中に井戸もあります。
堀切の中に井戸って、ちょっと新鮮です。
掘ったら出てきちゃった感じでしょうか?

唐突な感じではありますが、二ノ段の上が詰です。
ここには現在、礎石建物跡の上に仮設の櫓があります。
台風来たらヤバイんじゃないかという造りですが・・・
こういうのも割とオッケーです

ただ、コンセプトがいまいちよくわからず。
望楼型と層塔型の中間っぽい、ちょっと変な形ですw
こいつは平成31年2月28日までの期間限定で詰にある予定です。

詰の1つ西側の下にある帯曲輪が三ノ段です。
端の土塁には、ビッシリ石垣が組まれています。

そのすぐ内側にあるのが、建物の礎石だそうです。
そういえば、礎石のある所を中心に石垣が組まれています。
崩れちゃったのを補強したのでしょうか?

礎石のある部分から更に奥へ進むと、石垣は土塁の足元だけになります。

三ノ段を一周回って来て、今度は四ノ段に入ります。
その入口には、ガッチリした土塁で食い違い虎口になっています。

反対側の四ノ段側から見た虎口です。
下への出口もあり、ここはかなり重要な場所っぽいです。

四ノ段の内部です。
基本的に三ノ段の外側にある帯曲輪といった感じです。

南側にはまた1つ腰曲輪の展望広場があり、城址碑があります。

その背後には期間限定櫓もあり、ちょっとした絵になります


展望広場の下の斜面には、畝状の竪堀があります。
一面笹で覆われているのですが、影の濃淡で何となくわかります。

更に下ると堀切があり、その先が伝厩跡曲輪です。
説明板によるとこれ、二重堀切らしいです


伝厩跡曲輪です。
「~ノ段」とは呼ばないんですね。
段は、主郭を取り巻く帯曲輪を指すのでしょうか?
ここは出城だったと考えられている場所です。
ちょっと整備されて削られた?感はありますが、眺めがいいです♪
◆歴史◆
長宗我部氏の城でした。
最近ずっと字を間違えていた長宗我部氏が代々居城としていました。
築城時期は定かではないのですが・・・
秦氏が土佐の長岡郡宗部郷(宗我部郷)に入ったのが始まりだそうです。
その時期には、以下の通り諸説あって定かではありません。
・延久年間(1069~74年の間)に、泰能俊が土佐に移った
・保元の乱(1156年)で敗れた泰能俊が土佐に移った
・承久の乱(1221年)で泰能俊が功を挙げ、土佐の地頭となった
年代はバラバラですが、初めて土佐に入ったのはどの説も秦能俊です。
秦能俊が来た地名から、当初は宗我部姓を名乗ったそうです。
しかし、近くに別系統の同姓の武士がいたため、頭に長を付けたとか。
他方の宗我部氏は、頭に香を付けてお互いを区別しました。
1508年、岡豊城が落城しました
室町時代なると、長宗我部氏は細川氏の被官となりました。
細川氏が中央政権で出世したため、長宗我部氏も勢力を拡大。
しかし、応仁の乱で細川氏が分裂すると、一気に衰退し始めました。
それまで威張ってきた長宗我部氏はライバル達に攻め込まれ・・・
1508年、反長宗我部連合軍に攻められ、岡豊城が落城。
長宗我部兼序は自害し、長宗我部氏は一時没落しました。
1518年、長宗我部氏が復興しました。
岡豊城の落城後、遺児・千雄丸は一条氏の元で庇護されました。
一条氏は京から来た公家大名で、一条房家は正二位の超名門でした。
そのため、土佐で覇を競った土豪達も、別格の家として尊重していました。
その一条房家の調停により、千雄丸が岡豊城に復帰しました。
この時に千雄丸は元服し、長宗我部国親と名乗るようになりました。
長宗我部国親は山田氏を滅ぼし、香宗我部氏を三男に継がせました。
そして、親の仇である本山氏をあと一歩の所まで追い詰めましたが・・・
悲願達成を目前に、長宗我部国親は急死しました。
1582年、長宗我部元親が四国を制覇しました。
家督は嫡男の長宗我部元親が継ぎました。
色白で口数も少なく、姫若子と呼ばれ家中心配の種だったそうですが・・・
しかし、初陣の時に凄まじい槍働きを見せ、一気に武名を轟かせました。
父の死から3年で、宿敵・本山親茂を降しました。
1575年には衰退した一条家も併呑し、土佐統一を成し遂げました。
三好三人衆と戦っていた織田信長は、長宗我部元親と同盟を結びました。
しかし、1580年に三好氏が織田信長の軍門に降ると一変。
織田信長は、到底呑めない条件で長宗我部元親に臣従を迫りました。
長宗我部元親が要求を突っぱねたため同盟が終わり、敵対関係となります。
織田信長による四国討伐軍が出陣するその日に、本能寺の変が起こりました。
この機を逃さず長宗我部元親は十河存保を破り、四国を制覇しました。
長宗我部家が没落し始めます
織田信長亡き後、羽柴秀吉が織田家中の争いを制しました。
さらに中国地方の雄・毛利家とも和睦すると、矛先が四国に向きました。
1585年、羽柴軍の圧倒的な兵力の前に長宗我部元親は降伏。
土佐一国を残して、それまで得た讃岐・阿波・伊予は没収されました。
羽柴秀吉はさらに九州の島津義久を討伐すべく、大軍で攻め込みました。
この時、仙石久秀が指揮した戸次川の戦で島津軍に大敗。
長宗我部元親最愛の嫡男・信親も、この時に討死しました。
これ以降、長宗我部元親は別人のように覇気を失っていきます。
羽柴秀吉が後ろめたくなり大隅を与えようとしたものの固辞しています。
1591年、廃城となりました。
長宗我部元親は大高坂山に城を築き、本拠を移しました。
大高坂山城は高知城の前身となったお城です。
ただ、治水に難があったため、間もなく岡豊城に戻って来ました。
しかし、今度は浦戸城に大改修を加えて、こちらに移りました。
これにより、岡豊城は廃城となりました。
長宗我部元親は末子の長宗我部盛親を後継者に指名しました。
末っ子なので、家中にはかなり反対意見があったそうですが・・・
一族だろうと容赦なく葬り去ったそうで、家運が衰え始めました。
そんな中、1599年に伏見屋敷で病死しました。
その翌年、長宗我部盛親は関ヶ原の戦で西軍として参戦しました。
そのため領地を没収され、大名家としての長宗我部家は滅亡しました。
所在地:高知県南国市岡豊町八幡 GPSログダウンロードページ
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