2013/06/22
天神山砦/東京都三鷹市
天神山砦は三鷹市にある唯一の戦国期の城郭遺構です。訪問時は2013年5月5日です。

▲仙川の向こう側が砦跡
天神山砦は、仙川沿いに築かれました。砦沿いの川は・・・天然の堀ですね!

▲砦内部はほぼフラット
東側の信号脇に入口があります。入ってすぐは・・・あれ?遺構は?とキョロキョロ。全体的にフラットな感じで土塁どこ?空堀どこ?という感じ。

▲仙川沿い
・・・ですが、川沿いまで進むとそれらしい雰囲気が出てきます。平坦部から川に向かって落ちる斜面。ここ上がってくるの大変だろうな~。

▲川の方から砦を見上げた所
その斜面を下りて見上げると・・・同じような感じの斜面が川沿いに続いています。しかも、その斜面は自然地形というよりは人の手が加わった・・・と感じました^^

▲空堀
最後に川の反対側を見に行くと・・・!ありました、空堀ヽ(´ー`)ノ真ん中に塀がありますが、埋まってなければそれなりの規模がありそうです。
◆歴史◆(というより勝手な妄想)
天神山砦は史料には登場せず、いつ誰が築いたのか不明です。皆さんのブログ等で指摘されているのは・・・
・仙川の対岸にあった島屋敷と関係ある?
・深大寺城の攻防でどちらかが築いた?
などです。考えられる候補すら少ない遺構なのです

まず最初に挙がった島屋敷との関連。
島屋敷は武蔵七党の村山党・金子時光が住んだ館跡です。戦国時代末期まで続き、時光の孫・金子弾正の代まで続きました。さらに、徳川家康が関東に入ると、柴田勝重(勝家の孫)が陣屋を築いた場所です。金子時光が来たのは天正年間(1573~92年の間)とされています。この頃は後北条氏の支配が安定しており、城砦を築く必要性が感じられません。何せ、近所にあった本格的な深大寺城ですら廃城になっていたのですから・・・
次に深大寺城の攻防です。
深大寺城をめぐる攻防は、1537年に繰り広げられました。戦っていたのは扇谷上杉朝定と北条氏綱です。
1524年、北条氏綱が江戸城を攻略しました。そのため扇谷上杉朝興は河越城に退きましたが・・・江戸城奪還の機会を窺っていました。
1537年、その朝興は河越城で病没し、朝定が家督を継ぎました。朝定は早速挙兵し、重臣・難波田善銀に江戸城奪還を命じました。善銀はこの時に深大寺城を築き、江戸城へ攻め込む準備をしていました。
これを知った北条氏綱は、北条綱種に深大寺城勢の牽制を命じました。綱種は牟礼に砦を築き、綱種の弟・高橋氏種は烏山に砦を築いて防衛に務めました。これにより、後北条氏随一の猛将・北条綱種を前に、深大寺城の兵は釘付けにされたました。
すると・・・主力を深大寺城に置いた河越城の守備は手薄にならざるを得ません。この隙を、北条氏綱はちゃんと狙っていたのです。氏綱はここぞとばかりに河越城を攻め落としました。
・・・という戦いですw
深大寺城と牟礼砦は直線距離で4km程です。天神山砦はちょうどその中間にあります。深大寺城側から見ると、天神山砦は仙川の向こう側。牟礼砦側から見ると、天神山砦主要部は空堀の向こう側。
どっちから攻めるのがメンドクサイか。ということで、私は牟礼砦(北条方)の砦に1票です(´▽`*)・・・この時代に築かれたなんて保証はないのですがw
所在地:東京都三鷹市新川2丁目(新川天神山青少年広場)
東京都の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント