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河後森城/愛媛県松野町

河後森城は伊予と土佐の国境にあった城でした。
訪問日は2018年8月7日です。

【1】河後森城

河後森城は馬蹄形をしており、南側が開けています。
ここに無料の駐車場があります。
形としては、鎌倉時代に流行った殿谷戸形式の山城です。
城内へはここから入るので、門があってもおかしくない感じです。

【2】河後森城
拡大表示

駐車場にあった案内図です。
せっかくなのでパクリますm(_ _)m
色分けされている通りで、曲輪の名前は並び順の数字が付けられています。

【3】河後森城

馬蹄形の真ん中の低い所は、風呂ヶ谷と呼ばれています。
その真ん中を進むと、周りを山で囲まれています。
まるでカルデラの真ん中から外輪山を見るような感じです。
思っていたよりも、囲んでいる山は高いです。

【4】河後森城

ここで道が三方に分かれますが、まずは西へ。
続日本100名城スタンプ欲しいですからラブラブ
早速西第十曲輪に登りました。

【5】河後森城

西第十曲輪の虎口にある門です。
城門としては、ちょっと頼りない感じがしますが・・・
雰囲気はバッチリです音譜

【6】河後森城

西第十曲輪を奥から見た所です。
曲輪内には馬屋が復元されており、ここにスタンプがあります。

続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】河後森城 西第十曲輪にある復元馬屋
 押せる時間 いつでも可
 お休み 無し
 入場料 無料

【8】河後森城

続いて、西第十曲輪から西曲輪群を経て本郭へ向かいます。
西第十曲輪が城内で一番低いという事で、その先にも防御機構があります。

【9】河後森城

西曲輪群はこんな感じで、尾根に沿って曲輪が連なっています。
城内の通路は脇にあり、曲輪と高低差があります。
曲輪の中を通らせず、常に横から攻撃できる構造になっています。

【10】河後森城

西第二曲輪と西第三曲輪の間に、ほんのちょっとの溝がありました。
幅は30cmもないくらいで、深さも大した事ないのですが・・・
現地では「堀切」と書かれていました。
その前には説明板があり、発掘調査後に埋め戻したそうです。
発掘された堀切は、幅と深さが約2mあり、人が収まるサイズでした。
この説明板が無いと、ただの排水溝にしか見えませんでした。

【11】河後森城

西曲輪群は曲輪の数が多く、中にはこんな所もあります。

【12】河後森城

そして、一番高い所が本郭です。
その手前には堀切があり、ここは土橋でつながっています。
堀切の足元には、少しだけ石垣があります。
崩れるのを防ぐためのものでしょうか。

【13】河後森城

本郭内には、建物の一部が復元されています。
屋根はありませんが、地面だけよりかなりリアリティが増しますラブラブ

【14】河後森城

本郭から先は東曲輪群と呼ばれ、第四曲輪まであります。
案内図では段差が低く見えますが、1つ1つの段差が10m近くあります。

【15】河後森城

東第二曲輪から見た本郭です。
かなりの高低差があります。

【16】河後森城

東第四曲輪と古城の間には、堀切があります。
堀切の中に門があり、その向こう側に麓に通じる道があります。
堀切に屋根付きの門があったら渡れちゃうのでは?と思いましたが・・・

【17】河後森城

上から見たらこんな感じです。
脚力に自信のある方がギリギリ行けそうな感じでしょうか。
曲輪の端には柵もあるでしょうし、心配は要らなそうです。

【18】河後森城

古城と呼ばれている曲輪です。
馬蹄形の一番奥にあります。
こちらの段差は1m程しかありません。

【19】河後森城

古城でも、建物や柵の跡などが標示されています。

【20】河後森城

続いて、新城へ向かいました。

【21】河後森城

新城の曲輪です。
道や曲輪は草が刈られていますが、周りはそうでもありません。
こちらはあまり人気が無いのか、建物跡や説明板などもありません。
新城とか旧城があるので、その移り変わりがわかると面白いと思いました。


◆歴史◆

河原淵殿・渡辺氏の城でした。

築城年代は不明ですが、河原渕殿と呼ばれた渡辺氏の居城でした。
西園寺氏の家臣では一番の大身で、1万6500石を領有していました。
戦国時代の城主は渡辺教忠で、土佐一条氏から入った養子でした。
一条氏が西園寺氏の領地に攻め込むと、渡辺教忠は兵を出しませんでした。
そのため1567年に主君・西園寺公広に攻められ降伏しています。

1580年から翌年の間、芝源三郎が渡辺教忠を追放しました。

近習の芝源三郎が長宗我部元親に寝返り、謀略により城を乗っ取りました。
渡辺教忠のその後は不明で、殺されたとも帰農したとも伝わります。

1585年、伊予一国が小早川隆景の領地となりました。

羽柴秀吉が大軍で四国に攻め込んだため、長宗我部元親は降伏しました。
讃岐、阿波、伊予を没収された長宗我部元親は、土佐一国を安堵されました。
伊予一国は小早川隆景に与えられ、河野旧臣や西園寺公広を配下としました。
この頃の河後森城の様子がさっぱりわからず。
Wikipediaでは芝源三郎が1583年に戸田勝隆に追放されたと書かれています。
年と人物とが一致しないのですが、どうなんでしょう?
芝源三郎についてはサッパリわからず・・・あせる

1587年、戸田勝隆の城となりました。

九州征伐が終わると、四国でも大幅な領地替えがありました。
小早川隆景は筑前へ移され、大洲7万石が戸田勝隆の領地となりました。
戸田勝隆は羽柴秀吉の元で活躍した武将です。
検地を強行したため、農民による大規模な一揆が起きました。
この一揆の黒幕が旧領主ではないかと勘繰った戸田勝隆は・・・
西園寺公広を恩賞話で呼び出して謀殺しています。
1597年、慶長の役で朝鮮から帰国中に病死し、無嗣断絶しました。

藤堂高虎の城となりました。

戸田勝隆が没した後、隣の領主・藤堂高虎にその領地が与えられました。
宇和島に入った藤堂高虎は、その改修に着手。
その途中、関ヶ原の戦で東軍に味方し、加増が決定。
藤堂高虎自身は今治に移り、従兄弟・藤堂良勝が宇和島城代となります。
その宇和島城に河後森城の天守が移築され、月見櫓となっています。

1608年、富田信高が宇和島に加増移封
1613年、富田信高が改易される


1614年、桑折景頼が城主になりました。

桑折景頼は宇和島伊達家の筆頭家老で、7000石で河後森城主となりました。
しかしその翌年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:愛媛県北宇和郡松野町松丸 GPSログダウンロードページ

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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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