2018/08/19
能島城/愛媛県今治市
能島城は瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍の本拠地です。近づいたのは2018年8月7日です。

まずはスタンプ目当てで村上水軍博物館へ。
建物の前には、甲冑で身を固めたおじ様の石像があります。
事前情報では、入館料を払えばスタッフがスタンプを押すという事でした。
実際には普通にスタンプをポンと出してくれ、自分で押せました。
入館料を払わずスタンプだけ、というのは試していないのでわかりません


博物館の方に能島への船について尋ねたところ、あるかもしれない?
正面にある「能島水軍」に尋ねてみて下さいと教えてくれました。
ここがその「能島水軍」です。
海辺の土産物屋さんに見えますが、そうでもありますw

早速「今日って船ありますか?」と尋ねると「ある」とのこと。
しかも、あと10分後が最終ということで、乗ることに。
JAFの会員カードを見せたら100円引きの1100円でした。
こいつで割引出来たの初めてだったので、ちょっと感動です。
(JAF Mateには色々載っていますがよく見ていませんでした


船は漁船に屋根を付けた感じで、フェリーとは全然違いました。
陸上では遠いままの島が、だんだんと近づいてきます。
人間ってすごいw

人間もすごいけど、自然はもっとすごいww
海がこんなになるほど、潮の満ち引きってパワフルなんですね。
これは海底の岩にぶつかった水が、真上に上がって出来るものだそうです。
こんな所に船を近付けるなんて、毎日乗ってないと怖くて出来ません。

だんだんと島が近づいて来ました。
島の南端にある櫓っぽいのがはっきり見えます。
あぁ、あそこに逝きたい!

船は島の周りを回りながら、テープのおねぇさんが色々教えてくれます。
それにしても、本当に川のように流れの速い海です。
エンジンを止めると、スゥっと流されていきます。
「潮流体験~」なので、普段は味わえない船乗りが楽しめます。

ここは能島の北西部分にある砂浜です。
波が穏やかな場所で、船溜まりだったそうです。

その近くの岩場にあるピットです。
上陸できなかったので、とりあえず望遠で撮った1枚です。
ここに柱を立てて船をつないだそうです。

島の周りの東3/4くらいを見た所で、船は鵜島の方へ。
能島がだんだん遠ざかっていきます。
あぁ、逝かないで・・・

船は鵜島の北端部の岩の周りで潮流を体験しながら今度は西へ。
しまなみ海道の大きな吊り橋の下まで行き、橋を下から眺めました。
確かに珍しい光景ではありますが、私はあっちの方がいい・・・
そう思っていると、船は再び能島に近づいて行きました。
能島のすぐ南にある小さな島は鯛崎島です。
昔は能島と橋でつながっていた、かもしれないそうです。

能島の西側に近づくと、船着き場が見えて来ました。
すぐ近くまで寄ったので、いよいよ上陸か!なんてドキドキしましたが・・・

そんな私のドキドキをあざ笑うかのように船はゆっくり進み・・・
鯛崎島の南端にある石仏の説明が始まりました。
・・・何だったのか記憶が薄いですw
そんなこんなで「能島水軍潮流体験乗船」の船は元の場所に戻りました。
上陸、無いんですね(´・ω・`)
乗船の受付場所にあった潮流&上陸パンフでは、運航は土日祝日のみ。
私は夏休みだったので、訪ねたのはバリバリの平日でした。
以前は桜の季節の数日しか上陸できなかったそうですが・・・
今は、5月から12月の土日祝日に予約すれば上陸できるそうです。
最低10人以上の予約があれば、だそうですけど

私が乗った潮流体験乗船も、2人以上いないと船を出しません。
たまたま親子連れが乗ったので、私も便乗出来たという訳でした。

船に乗れると思ってなかったので、本当は遠くから眺めるだけの予定でした。
ここは能島がよく見えると話題の、カレイ山展望公園です。https://www.google.com/maps/d/view?mid=1TltJuVvLSiG8VSc9_KOUqDxlibU&ll=34.18406091277081%2C133.070461554718&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
鵜島と大島に挟まれた狭い所に能島と鯛崎島があります。
周りの潮目を見ても、流れがかなり速いことが見て取れます。

望遠で撮ってみました。
鯛崎島は能島城の出城だったと考えられています。
なんでわざわざ小さな島に?なんて思っていましたが・・・
この激しい潮流が最大の防御となっていたんですね。
手漕ぎの船でこんな所を行き来してたなんて、村上水軍凄いです!
◆歴史◆
村上氏により築かれました。
築城年代は不明ですが、村上氏により築かれました。
村上氏の出自は不明確ですが、信濃から来たのは間違いなさそうです。
伝わる出自が、信濃の村上氏と共通点が多々あるそうです。
史料の初出は940年、伊予の越智氏に従い藤原純友の乱を討伐した事です。
また、前九年の役(1051~62年)の後、村上仲宗が寺社を造営しています。
この頃には能島のすぐ西にある大島に拠点があったようです。
水軍はいつ頃から?
こちらもあまり記録が無いのですが・・・
1221年にあった承久の乱で、伊予の河野氏を支援したそうです。
この時は敗れた宮方だったため、村上氏も少し衰えたようです。
鎌倉時代末から室町時代初期には村上義弘が活躍しました。
長門探題・北条時直の軍を撃破し、鎌倉幕府討幕に加わりました。
その後は南朝方となり、北朝方の伊予守護の河野氏を南朝方に誘っています。
「河野十八家大将の随一」と言われていましたが、独立勢力だったようです。
村上家が3つに分かれました。
1374年に村上義弘が没した後、村上師清が養子に入り家督を継ぎました。
村上師清は、信濃村上氏説と北畠顕成説の2つあり定かではありません。
その子を能島、因島と来島に配置し、3家に分かれました。
能島は長男の村上義顕が継ぎ、3家の惣領的な位置づけとなりました。
戦国時代には村上武吉が活躍しました。
村上武吉は家督争いに勝ち、能島村上家を継ぎました。
1555年、毛利元就が厳島で陶晴賢を討ちました。
この時、村上武吉には双方から誘いがあったそうです。
村上武吉は「1日だけ」の約束で毛利元就に味方して、勝利に貢献。
約束に従い、周防の屋代島を与えられています。
その後、村上武吉は一時毛利氏に従わない時期がありました。
しかし、小早川隆景に攻められ降伏し、1574年以降は忠実に従いました。
織田軍と戦った1576年の木津川の戦では、織田水軍を撃破しています。
織田信長が鉄甲船を造ったのは、この敗戦を受けての事です。
羽柴秀吉に逆らい廃城となりました。
1582年、毛利家は羽柴秀吉に攻められていました。
しかし、本能寺の変が起こると和睦し、以後は羽柴秀吉寄りとなります。
1584年には毛利輝元が人質を出し、羽柴秀吉の家臣となりました。
しかし、村上武吉はこれには従いませんでした。
1585年、羽柴秀吉は四国の長宗我部元親を討伐しました。
この時にも羽柴秀吉から誘いがあったのですが、村上武吉は拒否。
誘いに応じた来島村上家を攻め、追放しました。
来島から追放された村上通総は、羽柴秀吉のもとに身を寄せました。
羽柴秀吉が「来島」と呼んで側近となり、以後は来島姓に改めます。
来島通総は四国征伐で小早川隆景の先鋒として活躍。
伊予に領地を与えられて大名となりました。
一方、羽柴秀吉、来島通総と敵対した村上武吉は没落し始めます。
村上武吉は、来島海峡(今治と大島の間)からの退去を命じられました。
1587年には海賊行為が禁止され、収入源を断たれます。
しかし、関銭徴収がバレて禁止令に触れ、1588年に筑前に配流されました。
以後、村上武吉は瀬戸内海を出禁にされ、能島城は廃城となりました。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 村上水軍博物館https://www.google.com/maps/d/view?mid=1TltJuVvLSiG8VSc9_KOUqDxlibU&ll=34.16876532458928%2C133.08749056447743&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 開館時間 9時~17時(入館は16時半まで) 休館日 月曜日(休日の場合その翌日)、 12月29日~1月3日 入館料 一般300円、65歳以上240円、学生150円、 高校生または18歳以下無料 |
所在地:愛媛県今治市宮窪町
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