2018/08/16
引田城/香川県東かがわ市
今年の夏休みは、四国と瀬戸内を回って来ました。とりあえずその中から続日本100名城を先にご紹介します。
最初は香川県から選ばれた引田城(ひけたじょう)へ!
訪問日は2018年8月4日です。

引田城への登城口は3か所あります。
私は一番わかりやすかった田の浦キャンプ場の駐車場から行きました。

登城口には記念の幟と案内図があります。

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せっかくなので、案内図のいい所だけパクリます


道端から山中に階段が付けられています。
往時から登り口はきつかったのか、ここは後付けなのか・・・
しばらくは傾斜のキツイ階段が続きました。

一旦尾根先に登り切った後も、緩やかな上り坂が続きます。

途中、道が土盛りを回り込んでいる所があります。
城キチ的に、山の中でこれを見るとちょっとテンション上がります。
これ、虎口ですよね?

そのすぐ先に、キャンプ場からの道が合流します。
この周りも平らだなぁ~なんて思っていましたが・・・
今上に載せた案内図を見たら、丹後丸と書かれています。
もう曲輪に入っていたんですね!
ということは、さっきのはやっぱり虎口ですね(*´▽`*)

さらに進むと、道端がブルーシートで覆われています。
1か月程前に大雨降りましたからね・・・

ブルーシートの下には、北二の丸の石垣があるようです。
「崩れる」とか「はがすな」とかアレコレ書かれています。
ああ、これ見れなかったんだぁ、残念!

実は、この手前からちょっと脇道に入った所にコレあります。
私は1周回って「石垣ねぇなぁ~」と諦めかけた時に見つけました。
北二の丸手前から、ちょっと脇に入った所ですよ~!

ブルーシートの先は、土の壁沿いに道を進みます。
その土の壁が途切れると、その裏にはかなり広い平坦地がありました。
いつも通りの雑木林ですが・・・北二の丸です


道沿いにあった土の壁は、高さ2メートル以上ある土塁でした。

そのちょっと先で、またしても道が分岐します。
本丸は最後にということで、まずは東の丸へ。

北二の丸からは緩やかな坂道が続きます。

そして、ちょっと虎口?っぽい所があり、開けた平坦地に出ます。
ここが東の丸です。
曲輪という割にちょっと狭いなぁなんて感じました。
このままだと、ただの見晴らしがいいだけの平坦地になってしまう・・・

ということで、キョロキョロして見つけた虎口っぽい所です。
上から見るとただの下り坂ですが、下から見ると虎口っぽいです


もうちょっと何か無いか?と欲深に攻めてみました。
先ほどは狭いなんて感じましたが、それは「草の無い所が」でした。
道じゃない所は草ぼーぼーですが、平坦地が続いていました。
その平坦地の端っこに、怪しげな石の列!
下に回り込んでみたら、石が並んでいました


さぁ、今度は本丸へ

先ほどの分岐から本丸方向へ進みました。
その途中、道端に大きな石がゴロゴロ転がっていました。
ここも石垣だったんでしょうね。

道を進むと、急に草深い坂道が現れます。
本当にコッチ?と思いながら進むと・・・

登り切った所は普通に平たい道となり、また分岐がありました。
この平坦地が南の郭=本丸のようです。
私、ここでもやらかしていまして・・・
1周目は、本丸の石垣を見つけられませんでした。
本丸の石垣は、この分岐から「引田港側登山口」の方へ進みます。
もう1つの登城路も歩くか!なんて、捨て身の攻撃が実りました。

分岐から10メートル程進むと、この石垣がありました

駐車場口から素直に登って来ると、北二の丸も本丸も石垣を見逃します。

元の道に戻ってさらに先へ進みました。
「本丸」の標示は無いのですが、「城山」ならありました。
ここが頂上のようです。

港がよく見えます。
軍事・経済の一大拠点である港を抑えるお城だったんですね!

天守台どこだ?と探してみました。
本丸も天守台も「→」はありますが、「ココ!」というのはありません。
構造を熟知していない一見さんには、ちょっと難易度が高いかも。
私なりに「たぶんこれ天守台?」と思ったのがコレです。
山頂付近の雑木林の中に、ちょっとした高台がありました。
周りよりほんの1メートル程高いだけですが・・・
これでしょうか?

上に紹介した石垣は2周目でやっと見つけました。
1周目はあれ?あれ?で目を皿にして物色し・・・
本丸の道端に石の列を見つけて、やっと撮れたのがこれでした。
紹介されてるのよりずいぶん小っさいなぁ、なんて思ってました


本丸先端から下る道を進むと、グルっと回って東の丸に戻ります。
◆歴史◆
讃州井筒屋敷でもらったパンフを参考にちょっとだけ探ってみました。
永正年間(1504~20年の間)に四宮右近が城主となりました。
四宮右近はこの頃に信濃国から移って来たそうです。
どんな人物なんだろうとググってみると、少しだけ出てきました。
本名は四宮光武で、寒川元政に仕えていました。
当時の寒川氏は、勢力拡大を目論む三好氏と度々戦っていたようです。
引田城を三好長治に奪われた後、徳島県阿南市にあった大潟城に移りました。
そして、1582年の中富川の戦で、長曽我部軍と戦って戦死したようです。
「四宮右近」でググると、遠江でも同年代に出てきました。
花沢城を落とされた小原鎮実が、高天神城下の四宮右近のもとへ。
それを聞きつけた主家の小笠原氏に殺されたというお話です。
年代が同じで遠く離れているので同一人物じゃないと思いましたが・・・
小笠原氏に縁があるという所が通じていると感じました。
三好氏は、阿波守護としてやって来た小笠原氏の子孫ですからね!
永正の頃の信濃では、府中と松尾の小笠原氏が争っていました。
この10年程前に、鈴岡の小笠原氏が松尾の小笠原氏に滅ぼされています。
・・・名前だけで追っかけるとグチャグチャになります。
この頃に鈴岡の小笠原氏が、血縁を頼りに四国に来たのかもしれません。
1570年、三好長治に奪われました。
三好長治が寒川氏を破り、三好家臣・矢野駿河守が城主となりました。
尚、四宮右近はこの時に三好家臣となり、十河存保に従ったようです。
1583年、仙石久秀と長宗我部元親が戦いました。
羽柴秀吉は、淡路の仙石久秀に十河存保を助けるよう命じました。
十河存保は三好長治の実弟で、長宗我部元親に攻められていました。
仙石久秀は讃岐に攻め入り引田城を占領。
そのまま拠点として長宗我部軍の侵攻を食い止めていました。
しかし、数に勝る長宗我部軍に包囲され、引田城は落城しました。
仙石久秀は淡路に戻り、守りを固めました。
その後、羽柴秀吉が四国討伐の軍を送ると長宗我部元親は降伏。
讃岐一国が仙石久秀に与えられました。
1587年、廃城?
九州征伐の際の失態により、仙石久秀が改易されました。
代わって生駒親正が讃岐一国の主になり、引田城に入りました。
しかし、讃岐の東に寄り過ぎていたため、聖通寺城に移りました。
以後、引田城は歴史に登場せず、廃城になった可能性があります。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 讃州井筒屋敷https://www.google.com/maps/d/view?mid=1uY6LFdlFdhp5NTRZk8PKdkbAyeE&ll=34.22776083947034%2C134.40343937244484&z=18" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 営業時間 10時~16時 休業日 水曜日(祝日の場合は営業) 入場料 母屋は300円 |
所在地:香川県東かがわ市引田 GPSログダウンロードページ
香川県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
引田城は記憶にまだ新しく感動した城跡なので、ちょっとお邪魔させていただきます。
北二の丸の石垣は圧巻で見応え十分にありましたね。
上段石垣のブルーシートは去年私が行ったときにもされてまして見れませんでしたが、どうやら崩落の危険があるとの事でしているみたいですよ。
本丸は案内図でいうと狼煙台跡になりましょうか。石垣があり天守台の表示もありましたよ。引田港側から登城すると最初に現れた遺構でした。
またお邪魔するかもしれませんので、その説はよろしく。
2018/08/17 22:55 by ろくもん URL 編集
Re:無題
あの石垣が天守台だったんですね。そういやそうですね(汗)港側からだと登りきる直前ですが、キャンプ場側からだと「どこ?」でした。
ブルーシートはそんな前からあったんですね。昔から残る遺構なので、崩れないようにする工事も賛否両論あって進まないのかもしれませんね。
2018/08/17 23:22 by なぽ URL 編集