2013/06/22
牟礼砦/東京都三鷹市
牟礼砦は、後北条氏の猛将・北条綱種(のちの綱高)により築かれた砦です。訪問日は2013年5月5日です。

▲神明社の入口
牟礼砦の跡地には神明社があります。神明社は周囲より少し高い台地上にあります。

▲神明社の社殿
社殿は普通の神社です。朝早くに訪ねたのがいけなかったのか、逆光です


▲由緒書き
境内には神明社の縁起についての説明板がありました。以下丸写し(数字は読みやすいよう算用数字に直しています)
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社名 神明社
祭神 天照皇大神
合祀 倉稲魂命
鎮座地 三鷹市牟礼2丁目1045番地
由緒
この神明社は牟礼の開祖、北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正18年 西暦1590年)の父北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の司として江戸城主となる)
大永4年正月 西暦1524年 小田原北條氏は江戸城の上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走天文6年4月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文6年7月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文6年11月15日 西暦1537年 綱種は陣内鎮護のために芝の飯倉神明宮の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀られていた。明治元年大政官布告神仏判然令に基き氏子の総意に依って合殿された。
以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。
昭和55年9月吉日 牟礼郷土史研究会
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◆歴史◆
ほどんど上の由緒書きの通りですが・・・1537年、扇谷上杉朝定は江戸城を取り戻そうと、難波田善銀に出陣を命じました。善銀は深大寺城を築いて江戸城へ攻め込む機会を窺っていましたが・・・
北条氏綱はこの動きを察し、江戸城から北条綱種(のちの綱高)を出陣させました。綱種は深大寺城の北東4kmの当地に砦を築き、難波田勢を牽制しました。そのため難波田勢は深大寺城に釘付けとなりました。
この間に北条氏綱が河越城を攻め落としました。
河越城落城を知った難波田勢は撤退しましたが・・・綱種は追い討ちをかけて大勝利を得ました。この戦で戦死した兵を弔うため、綱種はここに神明社を建てました。
★北条綱高について★
1506年生まれで、父は高橋高種、母は伊勢宗瑞(北条早雲)の養女とされています。綱高は宗瑞に育てられ、軍師・多目元忠に兵法を教わりました。
1524年の江戸城攻めの功により、北条氏綱の養子となり玉縄城代を務めました。
1537年には深大寺城に拠る扇谷上杉氏の重臣・難波田善銀を攻略。後北条家中屈指の勇将であり、北条五色備えの赤備えを統率しました。
昔から戦隊ものは5色だったんですね!ちなみに他の4色は
・白備:笠原康勝(下田城)
・黒備:多目元忠(平手城)
・青備:富永直勝(栗橋城)
・黄備:北条綱成(河越城)
です。現代の5色とは違うんですね(爆)
赤備えは家中一の軍団にしか許されないので、北条綱成よりも強かったという事でしょうか。ちなみに、綱成とは同じ北条姓ですが、出自が異なります。華々しい戦歴を誇る北条綱高は、1585年に78歳でこの世を去りました。この頃、北条家中では大黒柱とも呼ぶべき老臣が相次いで亡くなっています。
北条氏の猛将・北条綱成が1587年没。享年73。
北条氏の長老・北条幻庵が1589年没。享年97。
そして・・・1590年、豊臣秀吉によって後北条氏は滅ぼされました。
所在地:東京都三鷹市牟礼2丁目(牟礼神明社)
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