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高田館/福島県会津美里町

高田館は、交差点脇に大きな土塁が一部残っています。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】高田館

住宅街っぽい交差点の一角に、こんな土盛りがあります。
ポツンとあるので、言われなければ城キチでも気付きません。
これが、高田館跡にわずかに残っている土塁です。

【写2】高田館

土塁の裏と、交差点の向かいには大きなお店があります。

【写3】高田館

土塁は、このお店の敷地の角っこにあります。
お店を造る時に崩されずに残ったんですね!
周りは圃場整備されたようで、田んぼが綺麗に並んでいます。
お店が出来る前から、この土塁しか残ってなかったかもしれません。

【写4】高田館

土塁の上には赤い鳥居が。
何神社なのか見ていませんでしたが・・・
土塁が残ったのは、この神社があったお陰かも。
全国どこ行っても、神社仏閣を避けて開発されてますから^^

【写5】高田館

完全に崩されないまでも、道が通された時には削られたようで・・・
土塁の断面が、まっすぐコンクリートの壁になっています。
こうして見ると、かなり分厚い土塁だったようですねニコニコ

『高田館跡 説明会』によると、ここは主郭の南端部だったようです。


◆歴史◆

高田館自体ググってもサッパリショボーン
なので『高田館跡 説明会』から出来事を追っかけてみました。

1453年、典厩の乱で登場します。

典厩の乱は、松本典厩が蘆名盛詮に対して起こした乱です。
詳細は詰めていないのでザックリですが・・・
蘆名盛詮が家督を継いだ事に対し、松本典厩が不満を爆発。
橋爪将監ら同志を募って挙兵しました。
しかし、蘆名盛詮により撃退され、高田城に撤退(城と書いてありました)
蘆名軍はさらに松本軍を攻め、松本典厩は日光山へ逃れました。
その後、松本典厩は河原田氏を頼って会津に潜入。
猪苗代氏を味方につけて、反撃に転じました。
蘆名盛詮は苦戦したものの、結城直朝から援軍を得て何とか勝利。
松本典厩は自害した、というものです。
松本氏の本拠・船岡館とは2.5kmしか離れていません。
どうやら松本氏の拠点だったようです。

1479年、蘆名盛高に攻め落とされました。

この頃は誰が高田館に居て攻められたのかはっきりしません。
高田氏か渋川氏の居城だったという説があるようですが・・・
両者は同族です(渋川氏が本家で高田氏が分家)。
同時に攻められた白井館は、渋川一族の館だったそうです。

1553年、渋川源左衛門が史料に登場します。

この頃は蘆名盛氏が会津を支配し、全盛期を迎えていました。
史料に登場する渋川源左衛門が、棟役と公事を免除されています。
その渋川源左衛門は「大沼郡高田村」と書かれているそうです。
やっぱり渋川氏代々の拠点だったかもしれませんね。
その後の高田館はわからず・・・あせる


所在地:福島県大沼郡会津美里町館ノ腰

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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