2018/07/28
高田館/福島県会津美里町
高田館は、交差点脇に大きな土塁が一部残っています。訪問日は2015年8月6日です。

住宅街っぽい交差点の一角に、こんな土盛りがあります。
ポツンとあるので、言われなければ城キチでも気付きません。
これが、高田館跡にわずかに残っている土塁です。

土塁の裏と、交差点の向かいには大きなお店があります。

土塁は、このお店の敷地の角っこにあります。
お店を造る時に崩されずに残ったんですね!
周りは圃場整備されたようで、田んぼが綺麗に並んでいます。
お店が出来る前から、この土塁しか残ってなかったかもしれません。

土塁の上には赤い鳥居が。
何神社なのか見ていませんでしたが・・・
土塁が残ったのは、この神社があったお陰かも。
全国どこ行っても、神社仏閣を避けて開発されてますから^^

完全に崩されないまでも、道が通された時には削られたようで・・・
土塁の断面が、まっすぐコンクリートの壁になっています。
こうして見ると、かなり分厚い土塁だったようですね

『高田館跡 説明会』によると、ここは主郭の南端部だったようです。
◆歴史◆
高田館自体ググってもサッパリ

なので『高田館跡 説明会』から出来事を追っかけてみました。
1453年、典厩の乱で登場します。
典厩の乱は、松本典厩が蘆名盛詮に対して起こした乱です。
詳細は詰めていないのでザックリですが・・・
蘆名盛詮が家督を継いだ事に対し、松本典厩が不満を爆発。
橋爪将監ら同志を募って挙兵しました。
しかし、蘆名盛詮により撃退され、高田城に撤退(城と書いてありました)
蘆名軍はさらに松本軍を攻め、松本典厩は日光山へ逃れました。
その後、松本典厩は河原田氏を頼って会津に潜入。
猪苗代氏を味方につけて、反撃に転じました。
蘆名盛詮は苦戦したものの、結城直朝から援軍を得て何とか勝利。
松本典厩は自害した、というものです。
松本氏の本拠・船岡館とは2.5kmしか離れていません。
どうやら松本氏の拠点だったようです。
1479年、蘆名盛高に攻め落とされました。
この頃は誰が高田館に居て攻められたのかはっきりしません。
高田氏か渋川氏の居城だったという説があるようですが・・・
両者は同族です(渋川氏が本家で高田氏が分家)。
同時に攻められた白井館は、渋川一族の館だったそうです。
1553年、渋川源左衛門が史料に登場します。
この頃は蘆名盛氏が会津を支配し、全盛期を迎えていました。
史料に登場する渋川源左衛門が、棟役と公事を免除されています。
その渋川源左衛門は「大沼郡高田村」と書かれているそうです。
やっぱり渋川氏代々の拠点だったかもしれませんね。
その後の高田館はわからず・・・

所在地:福島県大沼郡会津美里町館ノ腰
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