2018/07/22
鴫山城/福島県南会津町
鴫山城は、会津四氏の一家である長沼氏の本拠地でした。訪問日は2016年7月31日です。

鴫山城へは、南会津町にある合同庁舎に車を停めて向かいました。
ここは鴫山城跡へ行く人なら駐車okとあちこちに書かれています^^

その駐車場の一角に、白い立て札があります。
これは外郭遺構についての説明板で、背後の土盛りがそれです。
城全体を囲む土塁と堀が惣構えとなっていたそうで・・・
ここら辺に70m程残っているんだそうです。

さて、駐車場から街の中心部へ向かって歩くと、案内がありました


城跡へ入る所にも、こんな感じであります。
後ろのエアコンの幟の方が目立ちますかね・・・w

拡大表示
この案内のすぐ後ろに、鴫山城の案内図があります。
大変わかりやすいので、パクリます


城跡への案内は、その道中にもあります^^

舗装道が終わると、変わった形の冠木門があります。
ここから本格的に城域に入ります。
すぐ後ろの説明板は「侍屋敷」についてのものです。
ここから大門までの間に、城主側近の屋敷が並んでいたそうです。

道の両側の段々の1つ1つが侍屋敷の跡だそうです。

想像図を拡大表示
更に進むと、大きな土塁が現れます。
その手前に、渋~い想像図の描かれた説明板があります


その奥には石垣の門が



・・・の前に、再び説明板。

説明板は堀跡についてのものでした。
長柄槍での戦闘を想定した構造だそうです。

そして、両脇に構える石垣の大門跡です。
この石垣は、上杉景勝時代に築かれたものと考えられています。
古い絵図では、二階建ての櫓門が描かれているそうです。

大門の内側は「御平庭」の説明板が立っています。
名前から、役所的なものがあったと考えられています。

更に奥へ進むと、虎口があります。
ここからが長沼氏時代の山城だそうです。

虎口を入ってすぐの右手に、上千畳、下千畳の説明板があります。
上千畳が本丸、下千畳が二の丸に当たるそうで・・・
上下二段の大きな曲輪がありました。
そちらは帰りに見たので、後ほど紹介します。

ここから本格的に山城らしくなります。

登り始めてから10分で、御茶屋場という曲輪が現れます。
ここは東西からの登城路とも合流する要所です。
大手口に相当する場所で、敵の侵入を食い止める場所だったそうです。
あまり広くはないですが、ひぃこら息を切らした敵なら余裕ですね


次に現れる曲輪が主水曲輪です。
登り始めてから13分の所です。
先ほどの御茶屋場の3倍程の広さがあります。
ここも御茶屋場と同じく、敵の侵入を防ぐための曲輪です。
説明板に野面積みの石積みがあったと書かれていましたが・・・

たぶんこれですね


登り始めてから16分の所には、岩肌むき出しの所があります。
おそらくここが「馬返し岩」だと思います。
ここだけ案内が無かったのですが、他にそれっぽいのが無かったので


登り始めて19分で、ようやく山頂が見えてきましたヾ(*´∀`*)ノ
山頂部分が詰めの城ということで、城の一番奥地となります。
その手前には、門の左右に双子のマッチョおじさん像が並んでいます。
・・・仁王像ですw
手前の説明板は、この仁王像について書かれています。
江戸時代後期の1844年に再建されたものだそうです。

門をくぐると、愛宕神社の立て札が立っています。
説明板には入母屋造妻入茅葺と書かれていますが、礎石しか見当たらず。
実は、私が訪ねる直前の2016年6月に落雷で焼失したそうです。

地面は灰で真っ黒になっています。
山頂にあった建物なので、避雷針は付いていたと思うのですが・・・
残念ですね。

山頂部分を見て下ってから、上千畳と下千畳も見てきました。
こちらはかなり広い曲輪で、ちゃんと二段に分かれているのがわかります。
現状は杉林なので下草も少なく、日差しが遮られ爽やかな涼しさでした。

その一番奥に「土門」があり、空堀が巡っています。
この空堀が大門の所まで続いていました。
◆歴史◆
長沼氏の城でした。
長沼氏はもともとは小山氏から派生し、結城氏や皆川氏とも同族です。
室町時代には関東八屋形に数えられ、守護に準ずる権力がありました。
しかし、本貫地の下野国長沼は宇都宮氏との争いで奪われ・・・
南北朝時代に、領地の1つであった会津国長江荘に移って来ました。
会津でも会津四家の一家に数えられ、戦国時代まで続いています。
1589年、長沼盛秀が伊達政宗に臣従しました。
長沼氏を含む会津四家は、もともとは独立勢力でした。
(会津四家は葦名氏、長沼氏、山ノ内氏と河原田氏です)
その中で戦国時代に葦名盛氏が勢力を拡大し、他の三家が従いました。
しかし、その葦名家で跡継ぎが次々に没し、やがて家督争いが始まりました。
この家督争いで分裂状態になった所を、伊達政宗に攻められ滅亡。
その戦いが、1589年にあった摺上原の戦です。
長沼盛秀は伊達政宗に従いましたが、他の二家は抵抗しました。
そのため、伊達政宗は長沼盛秀に河原田盛次を攻めさせています。
1590年、蒲生氏郷の城になりました。
豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を攻め滅ぼしました。
この戦の後、小田原に参陣しなかった武家は領地を没収されています。
伊達軍の先鋒として河原田盛次を攻めていた長沼盛秀は、ガッツリ該当。
山ノ内氏と河原田氏は、本領安堵を受け伊達軍に抵抗していましたが・・・
その約束も反故にされました。
伊達政宗はギリギリ間に合いましたが・・・
会津攻めが惣無事令に反するとして、会津が没収されています。
こうして空いた会津は、豊臣秀吉家臣の蒲生氏郷に与えられました。
この時、鴫山城は小倉行春が城主となり、城に改修を加えています。
主な改修箇所は、麓部分の強化だったようです。
1598年、上杉景勝の城になりました。
直江兼続の弟・大国実頼が城代となりました。
この時にも改修が加えられ、大門などが築かれました。
1627年、廃城となりました。
上杉景勝は関ケ原の戦で徳川家康に敵対。
そのため会津を没収され、米沢に移されました。
会津は再び蒲生氏に与えられ、小倉行春が再び城主となりました。
(Wikipediaの小倉行春の項に登場する「南山城」は鴫山城の別名です)
小倉行春は蒲生氏郷の妹を正室に迎えており、超の付く重臣です。
しかし、1609年に家中のゴタゴタがあり出奔。
その後は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣でも豊臣方として戦ったそうです。
主家の蒲生家は1627年1月、2代目藩主の蒲生忠郷が跡継ぎ無く没しました。
母親が徳川家康の娘だったため断絶は免れ、弟が家督を継ぎました。
ただ、本来は無視断絶のため大幅減封され、伊予に移されています。
代わって会津の領主となったのが加藤嘉明です。
徳川家光は藤堂高虎に会津を与えるつもりだったそうです。
しかし藤堂高虎は固辞し、仲の悪かった加藤嘉明を推挙したそうです。
以後は両者和解し、美談として伝わっているそうで・・・
領主が代わったこの時に、鴫山城は廃城となりました。
所在地:福島県南会津郡南会津町田島
福島県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント