2018/07/21
増山城/富山県砺波市
増山城は越中西部に拠った神保氏の城でした。訪問日は2018年7月14日です。

増山城跡の登城口の案内です。
和田川ダムの近くに、駐車場の広い増山陣屋があります。
その数十m先に、この案内が出ています。
この目の前にも3台ほど車を停められます。

案内の矢印の方に見える景色です。
橋に見えますが、和田川ダムです。
車では渡れないので、ここから歩きです。

ダムの上を渡ると、それっぽい門が見えて来ました。
ここが増山城の登城口です。
門の脇には、これでもかという位に案内図が並んでいます。

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その中で一番よく紹介されているのがコレです。
真新しい感じで、周辺も含めて描かれています。
この図の中では、増山城は真ん中の下半分です。
右上には亀山城と孫次山砦という、支城?出城?も描かれています。

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せっかくなので、主役の増山城部分を拡大します。
私はネットで拾ったこの図を印刷して訪ねましたが・・・
リアルなイラストは、かえって現地では見づらいと感じました。
絵的にはとても素晴らしいので、自宅では見入ってしまうんですけどね

曲輪を〇で描き、通路なりを線でつなぐシンプルなのがよさげです。
絵心が育ってきたら、ちょっと頑張ってみようと思いますw

登城路のスタート地点付近です。
谷沿いに緩い坂道を登って行きます。
この谷、竪堀だったら凄いですw

ちょっと登ると、真正面が土の壁で通せんぼされます。
ここは図で②の「F郭」です。
アルファベット表記はちょっと新鮮ですw
出来れば漢字表記欲しかったですね・・・
位置的には「大手番所」なんかだと思います。
勝手に名前まで付けるようになってきたようです


上の柵がある所が、図のF郭です。
わりとシンボリックな場所ですが、和名ではありませんw
この柵があることで、リアリティがかなり増しています


このF郭から通路越しの反対側に、地面がザックリ削られた所があります。
図でいうと、②のF郭のすぐ右にある堀切の続きにある竪堀です。
ちゃんと意識して回り込めば、上から堀切も見れたかもしれません


さらにチョット登ると、真正面に城塁が立ち塞がっています。
この城塁の上が一の丸です。

一の丸へは、城塁に張り付くような道を進みます。

一の丸内部です。
曲輪の中だけ撮ると「・・・」ってなりますよね

まぁ、こんな感じですw

一の丸から二の丸へ向かう虎口です。
内側から見たところです。

さっきの虎口を外側から見たところです。
一の丸の城塁が壁になり、どう進むのかがわかりづらくなっています。

一の丸側から二の丸側を見たところです。
道が分岐していて、上が二の丸、下が三の丸に通じる道です。
下の道にちょこんと標柱があるので、釣られて見てきました。

標柱には「石垣跡」と書かれています。
が、石垣は見当たらず。
草に覆われて見えないのか、「跡」だからそうなのか・・・
わかりませんw

上に戻り、二の丸虎口に突撃です!
ちゃんと曲がった虎口です^^

虎口から見た二の丸内部です。
こちらは真ん中に説明板があり「・・・」とはなりませんw
先ほどの一の丸よりもかなり広い曲輪です。
曲輪の名前に数字が付く場合、2つのパターンがあります。
一つは重要度が高い方から1、2、3となるパターン。
そしてもう一つは、手前から順に1、2、3となるパターン。
ここは後者のようです。
構造的には、二の丸が一番重要度が高そうな感じがします。

二の丸の左奥には、さらに一段高くなった場所があります。
ここが鐘撞堂です。
よそなら「櫓台」なんて呼ばれそうな感じの高台です。

登ってみると、簡単な説明板と小さな鐘があります。
特に感慨は無いのですが、つい鳴らしてしまいます♪

この鐘撞堂から、すぐ隣にすごい堀切と曲輪が見えます。
曲輪は安室屋敷と書かれていて「旬だなぁ~w」なんて思いましたが・・・
「あぢち屋敷」と読みますw

メインの二の丸見たらもういいや、なんて思っていましたが・・・
そこから見えた大きな堀切がどうしても見たくなりました。
二の丸からそっちへ向かったものの、道は無し。
安室屋敷と堀切へは、さっきの分岐から進みます。

二の丸の城塁をぐるっと回り込むように進むと・・・
こんな場所に出ます。
これが、先ほど二の丸から見えた大きな堀切です

たぶん、増山城で一番大きな堀切だと思います。

堀切にハシゴが掛けられており、そこから登った所が安室屋敷跡です。
広さだけなら、二の丸よりも広いかもしれません。

先ほどの堀切の底を更に進んだ所が馬洗い池です。
ただ、歩いている時は「堀が曲がってる」としか感じられません。

こうやって見ると「あ、池だ!」とわかります。
池にも草が生えているので、知らずに進むとえらいことになります


この堀底道は左が安室屋敷、右が三の丸に挟まれた所です。
この先に神保夫人入水の井戸や亀山城跡などがありますが・・・
タイムトライアル的なスケジュールのため、ここで散策を終えました。

砺波市埋蔵文化財センター
今回の弾丸北陸ツアーもう1つの目的は、スタンプ集めです。
増山城のスタンプは、庄東小学校脇の埋蔵文化財センターにあります。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 砺波市埋蔵文化財センターhttps://www.google.com/maps/d/view?mid=1BjW0HLyElq61ajcdhzcrBDm_lZg&ll=36.63598998468544%2C137.01117507825143&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 開いている時間 9時~17時 お休み 月曜日、祝日(月曜日の場合翌日)、12月~3月 |
◆歴史◆
南北朝時代には和田城と呼ばれていました。
『二宮円阿軍忠状』に和田城という名で登場するそうです。
どんな形で誰が城主だったのかが???ですが・・・

南朝方に属した桃井直常に味方した人物が守っていたそうです。
桃井直常は足利氏の一族で、足利直義に属していました。
弟の桃井直信が越中守護となっていた時期もありましたが・・・
その前の守護・斯波義将と支配権を争って対立し、敗れました。
戦国時代は神保氏の城でした。
神保氏は能登・越中の守護・畠山氏家臣で、越中西部の守護代でした。
海に近い放生津城を本拠とし、応仁の乱でも活躍しました。
しかしその後、神保慶宗が一向一揆と結び独立の動きを見せると・・・
主家の畠山氏と、越後の長尾為景の連合軍に攻められ壊滅しました。
神保氏はその後、神保慶宗の遺児・神保長職がじわじわと復興。
はじめは一向一揆にも勝てなかったそうです。
次第に勢力を拡大し、越中東部の椎名氏を押しのける程にまでなりました。
しかし、椎名氏は上杉謙信を後ろ盾に神保氏に対抗。
神保長職は、上杉謙信が攻めて来ると降伏しましたが・・・
上杉軍が越後へ撤退すると、また椎名氏を圧迫しました。
上杉謙信は再び越中に出陣し、この時に増山城も攻められました。
神保長職はまた降伏するのですが、上杉謙信は増山城の堅城ぶりを絶賛したそうです。
一度上杉軍に奪われますが、神保長住が奪還しました。
神保氏はしばらく上杉謙信に従いましたが・・・
一向一揆が盛んになると、彼らと結んで再び反上杉の動きを見せました。
しかし、神保家中は親上杉派と反上杉派に分裂。
一方が勝つと他方が敗れ、そんな事が続いて次第に勢力が衰えました。
1576年、上杉謙信が上洛のため挙兵し、越中に攻め込みました。
上杉謙信の標的は、その先にある織田軍ですが・・・
この時に増山城は攻め落とされ、神保長城が消息不明になっています。
増山城には上杉家臣・吉江宗信が入りました。
その後は父・神保長職と対立して出奔していた神保長住が戻って来ます。
戻ってきたのは、出奔先の織田信長が越中に攻め込んだためでした。
神保長住は上杉軍に滅ぼされていた神保家の旧臣を集め、越中攻略に貢献。
増山城、富山城を上杉軍から奪う活躍を見せました。
しかし、旧臣の小島職鎮の急襲を受けて捕らえられ・・・
織田軍により間もなく救出されましたが、この事件を機に追放されました。
1582年、佐々成政の城となります。
佐々成政は前年から越中に入り、対上杉軍の最前線を指揮していました。
そんな中、神保長住が襲われる事件があり、以後は完全に越中を掌握しました。
佐々成政は増山城に改修を加え、現在見られる形に整備しました。
1585年、前田家の城となりました。
越中を支配していた佐々成政は、1583年にあった賤ヶ岳の戦で柴田方でした。
翌年の小牧長久手の戦では、当初は羽柴秀吉方だったものの、敵方に寝返りました。
そのため羽柴秀吉に討伐され、富山城を包囲され降伏しました。
以後の越中西部は、加賀の前田利家に与えられました。
増山城は、重臣の中川光重らが守将を務めています。
1615年の一国一城令により廃城となりました。
所在地:富山県砺波市増山 GPSログダウンロードページ
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コメント
この城には…。
あの遺構の凄さは半端ないですよね!
2018/07/21 07:12 by syunpatsuryoku1号 URL 編集
Re:この城には…。
F郭ですれ違ったおばぁちゃまは「大した事ない」って言ってましたw
見る所がわからないとそうなっちゃうんですよね。曲輪を複雑な堀底道で区画してるのが、戦国時代後期っぽくていいのにね!
2018/07/21 08:08 by なぽ URL 編集