2013/06/22
保谷氏館/東京都西東京市
保谷氏館の跡とされる場所には東伏見稲荷神社があります。都道4号沿いにあり、かなり立派な鳥居が目立ちます。

▲東伏見稲荷神社の鳥居
駐車場はこの鳥居の真正面にありますが・・・朝早くは閉まっています。でも、バイクなのでちょっとだけ路駐させて頂きました。それにしても、朱が映える立派な鳥居です^^

▲社殿
鳥居をくぐって数段の階段を登ると、すぐに社殿が見えました。この段差が郭の跡なのかな?と思いつつ。周囲は完全に住宅街となっており、すぐ近くに大きな道もあります。旧状を偲ぼうにも、う~んと唸るしかないです。
◆歴史◆
保谷氏館跡とされる東伏見稲荷神社は、昭和4年に京都の伏見稲荷を分祀したそうです。・・・ということは、それまではどうだったんでしょう?
西東京市(2001年に保谷市と田無市が合併)のホームページでは、保谷の地名の由来を
・元々は穂屋か穂谷だったものが、江戸幕府に提出した書類に誤って保谷と書いた。
・保谷氏が中心となって開発した村だから。
の2説を挙げています。実際どうだったのかはわからないそうですが。
ここで書かれている"保谷氏が館を築いていた"という言い伝えの地がココです。
1559年の『小田原衆所領役帳』では、太田道灌のひ孫・康資が付近を領有していました。また、保谷直政が近くに有る東禅寺を開基したのが1594年です。・・・ということは、その間によそから移って来たということですね。
太田康資は江戸城代を務めていました。しかし、江戸城は元々は太田道灌の城であり、城主になれない事が不満だったとされます。1562年、康資は岩附城主・太田資正を頼って後北条氏から離反しました。そして1564年、第二次国府台合戦で里見氏とともに戦い、後北条氏に敗れました。康資は安房へ逃れますが、その後の消息はわからなくなります。
領主不在の当地に保谷氏が来たとすれば、この頃ではないかと思います。保谷は元々は水利が乏しく、畑作が中心の地域でした。水路が引かれて水田が開墾されるのは江戸時代になってからですが・・・保谷出雲守直政が当地の開発に関わったのは間違いなさそうです。
ですが・・・その館がどこにあったのかは、今でも謎のままです

所在地:東京都西東京市東伏見1丁目(東伏見稲荷神社)
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