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宮崎館/福島県金山町

宮崎館は川に突き出した半島状の所にありました。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】宮崎館

宮崎館跡へは会津中川駅付近からわき道に入ります。
そして、更地の中の道を突き進み、突き当りにこの案内があります。
周りは車が殆ど走らない所なので、ダイジョーブだと思います。
※個人の感想です

【写2】宮崎館

ここから案内に従って進むと、道にそって堀と土塁が現れますラブラブ
ここで台地基部から城域を分断していました。

【写3】宮崎館

土塁には結構、木が生えてますクローバー

【写4】宮崎館

その奥の平坦面です。
奥に見えるのは土塁、かもしれませんあせる

【写5】宮崎館

南側には川に下りる道があります。
この段になっているのが、腰曲輪だそうです。
無意識に撮ったので、ただ見下ろしただけになってますあせる


◆歴史◆

1550年頃、宮崎行友により築かれました。

宮崎行友はこの辺り一帯の領主・山ノ内氏の娘婿です。
山ノ内俊清は1544年、山ノ内俊通に家督を譲りました。
この時に玉縄城を築き、5男・川口俊甫とともに移り住みました。
川口俊甫の娘婿・宮崎行友は、玉縄城の尾根続きに城を築きました。
宮崎行友は1550年頃、新たに宮崎館を築きました。

1589年、山ノ内一族が割れました。

よくわからないのでザックリ書きます。
勢力の衰えた蘆名義広を伊達政宗が攻めました(摺上原の戦)。
この時、山ノ内氏勝も一族を率いて蘆名軍の一員として出陣しました。
しかし、蘆名家中は既に分裂しており、傍観する者が少なからずいました。
そんな蘆名軍が伊達政宗に敵うはずもなく大敗。
蘆名義広はこっそり実家の常陸に逃げ、蘆名家が滅亡しました。

蘆名家臣の多くはそのまま伊達政宗の家臣となりましたが・・・
山ノ内氏勝は従わず、伊達軍に攻められることとなりました。
松坂峠の戦で山ノ内軍は大敗したようです。
(経過がわかりませんが、山ノ内家臣が数多く討死しています)
この戦いまでは宮崎氏は山ノ内氏勝に従っていたようです。
(三男・宮崎善兵衛が伊達軍と戦って討死しています)
その後、山ノ内一族のうち、野尻氏と川口氏が伊達軍に寝返りました。
山ノ内氏勝が籠る城を、伊達軍の先鋒として攻めています。

1590年、廃城となりました。

伊達家臣となった川口氏と宮崎行友でしたが・・・
豊臣秀吉の奥州仕置きにより、会津が伊達政宗から没収されました。
そのため、川口氏と宮崎行友も米沢に移りました。
尚、伊達軍に抵抗を続けていた山ノ内氏勝も領地を没収されています。
石田三成から本領安堵を約束されて伊達軍を引き付けたんですけどねあせる


所在地:福島県大沼郡金山町中川

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コメント

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せっかく頂いたコメントを、誤って削除してしまいました。
大変申し訳ないのですが、もう一度ご記入をお願いします。
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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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