2018/06/24
大葉沢城/新潟県村上市
大葉沢城は、西側が畝状竪堀で埋め尽くされています。訪問日は2015年8月6日です。

県道349号沿いに、城キチなら必ず立ち止まりそうな案内図があります


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その図がコチラです。
見た瞬間「行きてー!!!」となります

堀切で挟まれた部分の片方だけ、竪堀で埋め尽くされています。
すごい竪堀に興奮しつつも、ちょっと大げさじゃないか?なんて思いました。

駐車場から城跡方向を見た所です。
まずはあぜ道を通ってお寺を目指します。
このお寺、位置的には城主様の居館跡でしょうか?

お寺の脇から、城内へ通じる道があります。
かなり綺麗に整備されているので、真夏に訪ねても大丈夫です


登り切ると、道が左右に分かれます。
どちらに行くか、もう決まりましたよね?

まずは畝状竪堀を見るため右へ。
すると、すぐに大きな堀切様に遭遇します


朝っぱらからアドレナリン大放出ですw

畝状竪堀は、堀切の底を進んだ先にあります。

堀底を進んで反対側の斜面に出ると、早速ありました

思っていた以上にハッキリ残っていてびっくり。

道にしたがって進みますが、ずっとこんな感じです。
上の図は大げさな誇張ではなく、本当だったのです


竪堀だけでこんなにパターンがあるのかという程、色々あります。
でも、竪堀って斜面の横移動を防ぐためのものだったような気が・・・
遊歩道は思いっきり横移動していますw

ずっと竪堀が続いた道が、この堀切で遮断されます。
堀切に沿って反対側に進みます。

Uターンする感じで登り坂となり、その奥に雷神社が見えます。
神社の由緒書きには、源義綱が出羽へ遠征した際に建てたとありました。
佐渡に流される以前にも、越後には縁があったんですね!

神社の裏にまとまった平地があります。
城内で一番高い平地なので、おそらくここが主郭と思われます。
・・・左に写っているモノが気になりますよね???

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大葉沢城の想像図が描かれていました。
竪堀のある側からの鳥瞰図です

私もこんなの描けたらいいのですが・・・
毛虫かゲジゲジと間違われそうな自信ならあります(`・ω・´)

続いて、最初の分岐の反対側も見て来ました。
ここがどこだったのか、すでに記憶がありませんが・・・
今はそういう事が無いように、ちゃんとGPS使ってます


ここもどこだったか?ですが、神社から反対側へ向かう途中にあります。

反対側にある土塁です。
こちらも平坦面になっていて、周囲を土塁で囲まれています。
土塁に堀切に畝状竪堀と、見所満載な城跡でした



◆歴史◆
鮎川氏のお城でした。
鮎川氏は、鎌倉時代初頭に越後にやって来た本庄氏の庶流です。
本庄氏の祖と色部氏の祖は兄弟だったので、色部氏とも同族です。
はじめは相川という所に居て、後に戦国時代に移って来たようです。
ググって出てくるのは、1507年の永正の乱の頃からです。
永正の乱は守護・上杉房能と守護代・長尾為景の争いです。
鮎川氏は本庄氏や色部氏とともに、守護方として行動しました。
この時に大葉沢城が長尾為景方に攻められ、降伏しています。
1530年代に反・長尾為景の機運が高まり、上条の乱が起きました。
この時に揚北衆は壁書(決め事)を作り、連携して動きました。
この中に鮎川清長の名が登場します。
鮎川清長は後に本庄房長と対立し、本庄房長追放にひと役買っています。
そのため、後にその子・本庄繁長とは不仲となります。
1571年、本庄繁長に攻められました。
1540年、上杉定実の養子問題で、本庄房長と中条藤資が対立。
この争いの中で、本庄房長は弟・小川長資に騙されて出羽へ向かいました。
その道中、騙された事を知った本庄房長は、怒りで倒れてそのまま没しました。
本庄房長の正室は本庄城内で傷だらけで倒れていましたが・・・
色部勝長に救われ、その7日後に生まれたのが本庄繁長でした。
本庄家はこの赤子を当主とし、小川長資が後見人となりました。
本庄繁長は1551年、父の13回忌で小川長資を殺して実権を回復。
以後、長尾景虎(=上杉謙信)に仕えて数々の戦功を立てました。
しかし、手柄を立てて与えられたのは、腹の足しにならない感状ばかり。
不満を抱いていた所を武田信玄に利用され、1568年に謀反を起こしました。
この乱は翌年には上杉謙信に鎮められ、領地の一部を没収されました。
しかし、没収された領地が鮎川清長に与えられた事で、再びプッツン。
本庄繁長は1571年に挙兵し、鮎川清長を攻めました。
鮎川清長はこの頃に没しており、戦死した可能性もあります。
家督は越中から来た二宮長恒の子が継ぎ、鮎川秀定と名乗りました。
1598年、廃城になったと思われます。
鮎川秀定についてはよくわからず・・・
御館の乱ではどちらにも味方せず、乱後に没落したためです。
1613年、本多重政の家臣となり、上杉家から加賀に送られています。
本多重政は本多正信の子ですが、各地を転々と流浪していました。
この時に他にも、上杉家臣や直江家臣が同じように加賀へ移されています。
という事で、鮎川秀定は上杉景勝に仕えて会津に移っていた事になります。
鮎川氏自体はその後も米沢藩士として名を連ねています。
所在地:新潟県村上市大葉沢
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