2018/06/22
江上館/新潟県胎内市
江上館は綺麗に整備され、資料館まであります。訪問日は2015年8月6日です。

駐車場の目の前に見える堀と土塁です。
歩いて渡れそうだ!なんて言っちゃイケマセン。
ちゃんと水が張られていて、雰囲気バッチリです

土塁上には中条氏当主の名前が書かれた幟が立てられていました。

堀をたどって北に進み、堀が東に折れた所です。
水が無くても、堀と土塁はやっぱりイイです


さらに堀に沿って進むと、木の門があります。
その前には板の壁が立てられています。

門の中を覗き込むと、土塁に囲まれた空間があります。
高さがあるので、外が見えません。

さっきの門から反対側を見た所です。
門の前で堀が折れていて、両側を土塁で挟んでいます。
桝形虎口の原形みたいな感じがします


上の土塁のさらに向こう側が北郭です。
真夏のせいか、ちょっと草深いです

こちらもちゃんと土塁で囲まれています。

北郭から見たさっきの虎口です。
北郭が奪われても、主郭との間に堀と土塁があります。
山城だと土塁は重要度の高い方の郭にしか無いことが多いですが・・・
ここ、平城というか居館ですからねw
発掘調査の結果に基づいた復元だと思います。

城キチ心をくすぐる光景なので、望遠で圧縮して撮りました。
さっきの板壁が、ちゃんと門の中を隠していますネ!
北郭が敵に奪われても、簡単には主郭に進めないようになっています。

主郭に入り、反対側からさっきの門を見たところです。
内部は柱の跡を示す表示があります。
私には往時の姿が想像できませんが・・・


さっきの門は北側にありましたが、南側にも門があります。
櫓門のようで、上に何か乗っかっています。
上を木の柵で囲むとそれっぽくなりそうです。
ある程度のものがあると、勝手に色々想像しちゃいます


この門から外側を見たところです。
堀に橋が架かっているような、架かっていないような・・・
立入禁止になっているので、工事中なのかもしれません。
今はどうなっているのでしょうか?

南側から出入り出来ないので、元来た北側から出て戻って来ました。
一番上の写真と同じ位置から右を見たところです。

駐車場は奥山歴史館にあり、ここに説明板が2枚あります。

拡大表示
もちろんパクリます

今回歩いたルートは、左下から時計回りに進んで真ん中の堀へ。
そこから主郭に入って南端まで行き、元のルートで戻って来ました。
◆歴史◆
中条氏の15世紀の居館と考えられています。
中条氏は和田宗実を祖とする揚北衆に属する氏族です。
和田宗実は、鎌倉幕府侍所別当を務めた和田義盛の弟です。
当初、奥山荘は和田義茂(和田義盛の弟で和田宗実の兄)に与えられました。
和田義茂は後に、弟に奥山荘の地頭職を譲っています。
鎌倉時代の1213年、和田一族は北条得宗家により粛清されました。
この時に和田義盛を筆頭に、殆どの和田一族が滅ぼされましたが・・・
和田時茂はただ1人、幕府に味方して生き残りました。
1247年には本家である三浦氏も粛清されました(宝治合戦)。
この時にも和田一族は大打撃を受けましたが、和田時茂は生き残っています。
(和田氏は三浦氏の庶流なので、殆どの和田一族は三浦氏に味方しました)
こうして生き残った和田時茂の子孫が、越後の阿賀野川北岸で栄えました。

15世紀頃から、中条氏は鳥坂城を本拠とするようになります。
戦国時代になると、中条氏は鳥坂城を本拠とするようになります。
鳥坂城は「とっさか」と読み、鎌倉時代に城氏が籠城した山城です。
江上館から約3.5km東にありました。
中条茂資が南北朝時代に城氏以来、鳥坂城を使ったそうです。
しかし、これは一時的だったようで・・・
鳥坂城を改修して居城とするようになったのは、その曾孫・中条房資です。
中条房資は1423年の起きた応永の乱で、守護方として活動しました。
他の揚北衆は守護方から守護代方へ寝返ってますが・・・
上杉頼藤の居城・山浦城を守ったりしていました。
1426年、中条房資は江上館を引き払い、河間城に籠もるようになります。
河間城がどこら辺にあったお城なのか???ですが・・・

近隣勢力が敵になると、平城の江上館では心許なかったのかもしれません。
その後、中条房資は本拠を鳥坂城に移しました。
1453年の文書には、「子々孫々捨てるべからず」と書いています。
この頃には江上館は完全に使われなくなったのかもしれません。
所在地:新潟県胎内市本郷町
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