2018/06/17
五十公野城/新潟県新発田市
五十公野城(いじみのじょう)は、東から西に突き出した尾根上にありました。訪問日は2015年8月6日です。

五十公野城は東中学校の裏山にあります。
グラウンド沿いに回り込みますが、知らないと通って良いのか悩みます

登城口には、かなり立派な案内図があります


ただし、山キチ様向けなので、かなり広範囲に描かれています。
私達が欲しいのはこの部分だけですネw

案内図のすぐ後ろから山中へ入る登城路です。
山城ではありますが、登城路は割と緩やかです。

登り切ったら、登城口方向に鋭角に曲がります。
山上の道は緩やかに稜線上を辿り、あまり高低差はありません。

堀切のあったっぽい所が数か所、ちょっとだけ凹んでいますけどw
埋められてしまったようで、はっきりソレとわかる所はありませんでした。

ラストは登りの向こうに青空が見えます。
典型的なゴールの絵ですw

そこまで登り切ると、視界がパッと開けます。
その中に、ぬっと目立つ石碑があります


五十公野城の城址碑です。
何となくですが、おせんべいみたいで美味しそうです

だって、新潟ですから♪
登城口からここまでの所要時間は5分でした。
◆歴史◆
五十公野氏のお城でした。
五十公野氏は新発田氏から分かれた一族です。
その新発田氏は、鎌倉時代に越後に来た佐々木氏の末裔です。
新発田氏は室町時代に入ってから加地氏から分かれました。
なので、五十公野氏は室町時代に派生した一族という事ですね!
戦国時代には、新発田治長が五十公野氏の養子となり家督を継ぎました。
しかし、御館の乱の後、新発田家を継いでいた新発田長敦が急死。
五十公野治長は実家に戻り、家督をいで新発田重家と改名しました。
一方、五十公野家は長沢勘五郎が継いで、五十公野信宗と改名しました。
五十公野信宗は新発田重家の妹婿です。
1581年、新発田重家が乱を起こしました。
御館の乱では兄・新発田長敦とともに上杉景勝方として活躍しました。
新発田長敦は外交に優れ、斎藤朝信と共に武田勝頼を丸め込んでいます。
上杉景勝の勝利に計り知れない貢献をした事は疑いありません。
しかし、御館の乱が収束すると新発田長敦が急死。
新発田家は弟の新発田重家が継ぎましたが、恩賞は本領安堵のみでした。
憤った新発田重家は、反上杉景勝の兵を挙げました。
これに乗じたのが伊達輝宗、蘆名盛隆と織田信長でした。
裏で新発田重家に支援を行ったため乱は、6年の長期に及びました。
五十公野信宗は新発田重家に従いました。
1587年、落城→廃城となりました。
一時は上杉景勝を討ち取る寸前まで追い詰めましたが・・・
新発田方の城は1つまた1つ落城し、ついに孤立しました。
五十公野城は藤田信吉に包囲され、家老・河瀬次太夫らが内応。
五十公野信宗は討ち取られ、落城しました。
この時に五十公野城は廃城となりました。
所在地:新潟県新発田市五十公野
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