fc2ブログ

池ノ端城/新潟県新発田市

池ノ端城跡には堀跡が残っています。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】池ノ端城

城跡は県道60号線沿いにあり、道端に堀跡があります。
埋められたものの、年月とともに少し沈んで堀の形がわかります。

【写2】池ノ端城

堀跡は一部田んぼにもなっていて、水が多めです。
元々は沼地に囲まれた微高地だったのかもしれません。
訪問前に見たサイト様では標柱と説明板がありましたが、今は無し。
城内へ通じる道を見つけたのですが・・・

【写3】池ノ端城

立入禁止でした(>_<)

【写4】池ノ端城

同じ県道をちょっと南へ進むと、公園の入口に白い立札が。
白い板に文字が書いてあると、条件反射で立ち止まってしまいます。
今回はアタリで、「池ノ端陣屋址」の説明板でしたラブラブ

【写5】池ノ端城

ただ、内部は御覧の通りで、どこにでもある広場です。


◆歴史◆

1581年、新発田重家の乱の際に築かれました。

御館の乱の恩賞が無い事が原因で、新発田重家が謀反を起こしました。
この時に新発田城周辺に築いた砦の1つが、池ノ端城でした。
守将には高橋掃部介が配置されました。

1582年、上杉景勝が新発田城を攻めた際に高橋掃部介が戦死。
その跡を15、6歳の息子が継いで、池端鴨之助と名乗りました。
可愛らしい名前ですヒヨコ

1583年、上杉景勝が撤退する所を新発田軍が攻め、大勝利を挙げました。
放生橋の戦いと呼ばれる戦で、上杉景勝があわや討死という激戦でした。
池端鴨之助はこの戦で、兜武者1人と母衣武者2人を討ち取る活躍をしました。
討ち取った母衣武者の1人が、父親に致命傷を負わせた人物だったそうです。

1587年、新発田方は支城を1つずつ攻略され、次第に孤立しました。
新発田重家の実家である五十公野城も、調略により内部から崩れて落城。
会津の蘆名軍との連絡拠点だった赤谷城も、上杉軍に攻め落とされました。
そして10月25日夜、新発田重家は城を討って出て、華々しく討死しました。

そんな中、池ノ端城はまだ陥落せずに頑張っていました。
池端鴨之助は母と妹を先に落ち延びさせ、正門から敵中突破を敢行しました。
30騎で突撃して7騎まで討ち減らされたものの、見事死地を脱出しました。
その後は、平林城の色部長実に仕えました。

色部長実は上杉景勝家臣ですが、新発田重家の妹を娶っていました。
新発田重家が「手柄を立てよ」と最期に突撃したのも、色部長実の陣です。
この他、色部長実は新発田重家の弟や他の家臣らも召し抱えています。
とても人望のある人だったんですね合格

1628年、城跡に陣屋が築かれました。

新発田藩3代目藩主溝口宣直の弟・溝口宣俊が分知され陣屋が築かれました。
溝口宣俊は池之端溝口家として独立し、9代続いて明治時代となりました。


所在地:新潟県新発田市池ノ端

新潟県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR