2018/06/17
池ノ端城/新潟県新発田市
池ノ端城跡には堀跡が残っています。訪問日は2015年8月6日です。

城跡は県道60号線沿いにあり、道端に堀跡があります。
埋められたものの、年月とともに少し沈んで堀の形がわかります。

堀跡は一部田んぼにもなっていて、水が多めです。
元々は沼地に囲まれた微高地だったのかもしれません。
訪問前に見たサイト様では標柱と説明板がありましたが、今は無し。
城内へ通じる道を見つけたのですが・・・

立入禁止でした(>_<)

同じ県道をちょっと南へ進むと、公園の入口に白い立札が。
白い板に文字が書いてあると、条件反射で立ち止まってしまいます。
今回はアタリで、「池ノ端陣屋址」の説明板でした


ただ、内部は御覧の通りで、どこにでもある広場です。
◆歴史◆
1581年、新発田重家の乱の際に築かれました。
御館の乱の恩賞が無い事が原因で、新発田重家が謀反を起こしました。
この時に新発田城周辺に築いた砦の1つが、池ノ端城でした。
守将には高橋掃部介が配置されました。
1582年、上杉景勝が新発田城を攻めた際に高橋掃部介が戦死。
その跡を15、6歳の息子が継いで、池端鴨之助と名乗りました。
可愛らしい名前です

1583年、上杉景勝が撤退する所を新発田軍が攻め、大勝利を挙げました。
放生橋の戦いと呼ばれる戦で、上杉景勝があわや討死という激戦でした。
池端鴨之助はこの戦で、兜武者1人と母衣武者2人を討ち取る活躍をしました。
討ち取った母衣武者の1人が、父親に致命傷を負わせた人物だったそうです。
1587年、新発田方は支城を1つずつ攻略され、次第に孤立しました。
新発田重家の実家である五十公野城も、調略により内部から崩れて落城。
会津の蘆名軍との連絡拠点だった赤谷城も、上杉軍に攻め落とされました。
そして10月25日夜、新発田重家は城を討って出て、華々しく討死しました。
そんな中、池ノ端城はまだ陥落せずに頑張っていました。
池端鴨之助は母と妹を先に落ち延びさせ、正門から敵中突破を敢行しました。
30騎で突撃して7騎まで討ち減らされたものの、見事死地を脱出しました。
その後は、平林城の色部長実に仕えました。
色部長実は上杉景勝家臣ですが、新発田重家の妹を娶っていました。
新発田重家が「手柄を立てよ」と最期に突撃したのも、色部長実の陣です。
この他、色部長実は新発田重家の弟や他の家臣らも召し抱えています。
とても人望のある人だったんですね

1628年、城跡に陣屋が築かれました。
新発田藩3代目藩主溝口宣直の弟・溝口宣俊が分知され陣屋が築かれました。
溝口宣俊は池之端溝口家として独立し、9代続いて明治時代となりました。
所在地:新潟県新発田市池ノ端
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