2013/06/19
成瀬城/東京都町田市
成瀬城は恩田川沿いにある舌状台地を利用して築かれました。訪問日は2013年5月3日です。

▲近くの橋から
今でも地形の名残は残っていて、近くの橋から見るとその面影がよくわかります。しかし、なぜかお城の前には墓地がw昔ここで大きな戦でもあったのでしょうか・・・

▲城山公園入口
川沿いの道を進むと公園の入口にぶつかります。名前こそ城山公園ですが、見た感じは街の中にある普通な感じの公園です。

▲城址碑と説明板
あえて普通の公園と違うとすれば、入口の脇にこれらがあること。この差はデカイですねヽ(´ー`)ノ城址碑がテカテカ光って撮りづらいのはご愛嬌ということで。

▲説明板
説明板には、城跡の痕跡について詳しく書かれています。図もかなり丁寧ではありますが・・・歴史についてはほとんど何もわかっていないのですね。

▲図
図には公園として整備された時の状況が描かれています。何となくそれらしく描かれてはいますが・・・

▲櫓台跡
この図を見ながら撮った「櫓台」の跡です。・・・何もありません


▲櫓台跡から見た公園全体
櫓台跡の辺りから振り返って見た公園です。木が植えられ、まばらにある遊具は普通の公園そのもの。何も知らずにいると、ここが城跡だとは気付かないレベルです。

▲竪堀跡
さらに、図にしたがって「たぶんここ」で撮った竪堀跡です。ツツジがそこだけ植えられていないのはわざとだと思いますが・・・そう思わずに見ると、ここに竪堀があったようには見えずw
じつは成瀬城は、その存在すら幻だったようです。いつの事なのかは知りませんが、宅地造成により城跡が破壊されました。町田市がそこに城跡があったと気付いたのは、造成があらかた終わった後らしく・・・急遽造成工事をストップして残ったのが、今ある遺構「の跡」という事です。
公園の図には、南側に空堀(堀切?)が描かれていますが・・・見た所、地面には窪みすら見当たらず。それらしき所に植えられた紫陽花が邪魔で見えなかっただけかもですがw

▲公園を下から見上げた所
唯一城跡らしいと感じたのはその地形。公園の下を通る道から見上げると、まっすぐは登れなさそうな急斜面。しかも、すぐ脇には恩田川が流れ、天然の堀となっています^^
◆歴史◆
築城年や築城者、城主など不明です。横山党の鳴瀬氏が築き、後北条氏の時代まで使われたのではないか、ということです。
鳴瀬氏は横山孝兼の子・藍原二郎大夫の孫・四郎太郎を祖とします。時代は平安時代末から鎌倉時代のはじめ頃の人物です。ただ、どんな人物なのかはわかりませんでした。この時代は所領の地名を名乗る人が多かったので、もしかしたら、という感じです。
横山党は1213年の和田義盛の乱で没落しました。おそらくこの時に一緒に没落したのではないでしょうか。
その後、記録が見られるのは1559年の『小田原衆所領役帳』。小山田弥三郎が他国衆として成瀬196貫文を領有しています。この「弥三郎」が誰なのかは特定できていません

武田勝頼を裏切ったことで有名な小山田信茂が「弥三郎」を名乗っていた記録があります。ただし、信茂の父・信有、そして兄の信有も同様に「弥三郎」を名乗っているからです。周囲には武田旧臣の子孫が多く暮らしているそうで、小山田氏とは関係がありそうです。
城山公園の南西数百mの所はかつて、根小屋という字名だったそうです。そのため、城域はかなり広かったと思われます。また、公園の脇の道は昔からの街道で、東には鎌倉みち、南には矢倉沢往還が通っています。交通の要衝を押える拠点であった事は間違い無さそうです。
所在地:東京都町田市南成瀬3丁目
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