2018/06/15
津川城/新潟県阿賀町
津川城は越後と会津の境にあった山城です。訪問日は2015年8月6日です。

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城跡へは国道459号のトンネルの手前からアクセスできます。
新潟の城跡なので、もちろん「新潟側」から見て手前です。
会津から見たら「トンネルを抜けた所から」です。
当たり前の事書いて、一人で勝手に盛り上がってます♪
トンネルの入口脇にかなり広いコンクリートの広場があります。
元はドライブインがあったのかもしれませんが・・・
西側の一番奥に、この案内があります。

歩き始めてすぐに、道端に「門跡」の標柱が現れます。

ちょっと引いて撮るとこんな感じです。
左側の土盛りと右側の斜面を使って道を狭めていたようです。
何となく、そんな雰囲気は掴めます。

ここは色々と親切な標柱があります


まだまだ全然登っていないので、麓の家臣団の住居跡のようです。
いわゆる「根古屋」ですね!


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更に進むと、とってもいい図の載ったボードがあります

お城の主要部はまだまだ先のようです。

すっかり大手道だと思っていましたが・・・
こっちは搦手だったんですねw
そう思って上の図をじっと見てみますが、大手口どこでしょう?w

引いて見ると、何となく門っぽいです。
「土塁跡」なので原形を留めていないのかもしれませんが・・・
道を通すために崩したという事でしょうか。

門っぽい土塁跡を過ぎると、いよいよ登り道になります。
ようやくですが、山城らしくなって来ました!

ここら辺から道端の標柱が賑やかになってきます


まぁ、そんな感じではしゃぎながらバチバチ撮りまくりますが・・・

夏場なので、たいだいこんな感じになります


登城路の途中に、超達筆な説明板があります。
そのタイトルは「麒麟山狐戻城の由来」です。
狐も戻る位に険阻な山城
説明板としては、トップクラスのカッコ良さです


山道をズンズン登って行くと、今度は石垣の標柱が現れました


残念ながら、





かなり登った所で平坦地が現れ、出丸跡の標柱がありました。
ここはさっき見た石垣のすぐ上にある曲輪です。

そのすぐ上にあるのが本丸です。
本丸なのですが、奥の方が1段高いです。
高いといっても幅の狭い段なので、物見台といった所でしょうか。

その高台の端っこに展望台があります。

本丸にある城址碑です。
ここも「麒麟山城」と書かれています。
お城にいくつも名前があることは珍しくありません。
私もどの名前で紹介するのか悩む事が少なくありません。

さて、本丸見たし次行こか~なんて思っていましたが・・・
本丸の付け根から更に高い所がありました。
チラっと見える赤い鳥居。
きっとそこも曲輪に違いないと攻めてみました!

赤を基調とした神社ということで、お稲荷様です。
ここは麒麟山金上稲荷神社で、城主様がお祀りしていたそうです。
狐が戻るくらいに険しいと説明板には書かれていたのですが・・・
お稲荷様のお使いである狐様は、かなり健脚だったのかもしれませんねw
◆歴史◆
1252年、藤倉盛弘(金上盛弘)により築かれました。
藤倉氏は会津の盟主・蘆名氏と同族です。
祖父の代の藤倉盛義は、蘆名氏の祖・蘆名光盛の兄に当たります。
藤倉盛弘は会津西部の金上の地頭となり、金上姓に改めました。
その後、越後国の阿賀野川上流域に進出し、津川城を築きました。
金上氏は越後との境目を守る一族として、蘆名家中で重きをなしました。
1589年、金上盛備が伊達政宗との戦で戦死しました。
金上盛備は蘆名四天王の上に位置づけられ、名実共に筆頭の重臣でした。
御館の乱では上杉景虎に味方し、蘆名氏の越後進出の構えを見せました。
武田勝頼滅亡後には滝川一益に接近し、織田家とは同盟関係にありました。
蘆名氏の使者として上洛した際には織田信長にも面会。
陪臣の身でありながら、従五位下遠江守の官位を与えられています。
蘆名盛氏の下で大活躍した金上盛備でしたが・・・
蘆名盛氏の隠居後、当主が相次いで若死したため家中が乱れました。
後継者を誰にするかで家中が割れた隙を、伊達政宗

後継者争いで対立した猪苗代盛国が、伊達政宗に寝返りました。
蘆名義広は伊達政宗に決戦を挑みましたが、摺上原の戦で大敗を喫します。
この戦いで金上盛備は討死し、嫡男・金上盛実が津川城で抵抗しました。
その後、金上盛実は降伏し、以後は伊達家の家臣となっています。
1590年、蒲生氏の城となりました。
豊臣秀吉の奥州仕置きにより、伊達政宗の会津領が没収されました。
会津には新たに蒲生氏郷が入り、津川城は蒲生氏の城となりました。
1598年、上杉景勝の城となりました。
上杉景勝が越後から会津へ移されると、津川城は上杉家の城となりました。
津川城には藤田信吉が城主として入りました。
藤田信吉は北条氏邦に乗っ取られた武蔵の藤田氏の子です。
後北条家→武田家→織田家→上杉家と流転を繰り返しています。
新発田重家討伐や蘆名軍の撃退、佐渡島平定など、数々の武功を挙げました。
そして、津川城1万5千石の城主となりました。
1600年、上杉家臣・鮎川帯刀が城主となりました。
上杉景勝が徳川家康と対立すると、一触即発の状態となりました。
上杉家中では開戦派と避戦派で意見が分かれ、藤田信吉は後者でした。
徳川家康との戦を避けるため、藤田信吉は上洛したのですが・・・
開戦派により徳川家康に通じていると讒言され、帰るに帰れなくなりました。
そのため、藤田信吉はそのまま徳川家康の元に逃れています。
津川城には、上杉家臣の鮎川帯刀が入りました。
徳川家康との決戦前には、越後の旧上杉家臣を扇動する拠点となっています。
1627年、廃城となりました。
関ヶ原の戦で徳川家康が勝つと、上杉景勝は米沢へ移されました。
会津には、前領主・蒲生氏郷の子・蒲生秀行が入りました。
その次の代の蒲生忠郷が、1627年1月4日に跡継ぎが無いまま没しました。
蒲生家は存続を認められたものの会津を去り、加藤嘉明が藩主となりました。
この時に、江戸幕府の命令によって津川城が廃城となりました。
所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町津川
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