2013/06/16
若松城/福岡県北九州市戸畑区
若松城・・・というよりも「中島城」と呼んだ方がよいのかもしれません。
戸畑にあった島なので

現在は存在しないお城です。

▲若戸大橋の下辺りにあったという
若松城は別名・中島城ともよばれ、洞海湾に浮かぶ島でした。
この中島というのは通称で、正式には
河【白斗】(かわと)島というんだそうです。
「若松城」と呼んでいますが、戸畑村に属していました。
写真の辺りにあった、らしいのですが・・・跡形も無く消滅しています

◆歴史◆
築城年代および築城者は不明です。
永正年間(1504~21年の間)には既に城があり、竹内治部が居たそうです。
竹内治部は鳥旗の郷士で、1515年に浄土真宗の照養寺を開基しています。
なお「鳥旗」は「戸畑」のルーツではないかと言われています。
他にも「飛幡」という表記もあるそうです。
竹内治部の経歴はサッパリわかりません

その後、1569年には毛利氏の家臣・小田備前守が居たようです。
小田備前守の事もわかりませんT_T
1601年、黒田長政が筑前の主となり、若松城を整備しました。
城主には黒田24騎の1人・三宅若狭守家義を据えています。
三宅若狭守は、城を落とすのは「朝茶の子を食するが如し」と言う程の猛将でした。
他にも黒崎城や益富城、鷹取山城など、
豊前との国境沿いに城を構えました。
城主には後藤又兵衛基次や母里多兵衛友信など、
名のある勇将を置いています。
このものものしい配置は「筑前六端城」と呼ばれています。
これは関ヶ原の戦い後の国替えで起きたトラブルが原因です。
黒田長政は豊前から筑前に移り、
豊前には丹後から細川忠興が移って来ました。
長政は国替えに際し、年貢を徴収して筑前に移りました。
一方、忠興は「武家の作法」として、
丹後では年貢を徴収せずに豊前にやって来ました。
・・・有名な話なので以下略w
若松城は1615年の一国一城令により廃城となりました。
ただ、洞海湾に出入りする船の管理は必要なため、
「洲口番所」が置かれました。
そして1623年に三宅若狭守はこの地で没し、若松に葬られました。
江戸時代の末期には砲台が築かれましたが、
その後民間に払い下げられて工場が建ちました。
その後、筑豊地方で採掘された石炭が、
洞海湾から大型船で全国に運ばれるようになります。
石炭が主要エネルギーとなり、需要が爆発的に増加したためです。
すると、洞海湾の入口にある島がどうしても邪魔ですね・・・
昭和になり、1939年から洞海湾修築工事の一環として
島の除去が始まりました。
惜別式まで挙行したそうで・・・翌年には完全に無くなりました。
島があったことを記録しようと、
旧戸畑区役所前には島の石が数個展示されているそうです。
この石は見に行っていません。
だって・・・さっき知ったんですからwww
所在地:福岡県北九州市戸畑区
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コメント
無題
明日、若松城に行く予定なので記事を参考に行ってみまーす(^o^)
2013/11/03 21:11 by amellosh URL 編集
Re:無題
ぜひぜひ石もお忘れなく^_^;
2013/11/03 23:03 by なぽ URL 編集