2018/05/06
元城(=深浦館?)/青森県深浦町
元城は、深浦館だったと考えられている山城です。訪問日は2018年5月5日です。
ついに私も40代後半に足を突っ込みました。
「人間50年」まであとちょっと・・・
生き急がねば!と、GWは夜行バスで青森まで行ってきました。
死期を早めそうな事やってますwww
5月5日は城跡10か所巡りましたが、お昼前にまさかの任務完了

さて、残り7時間半をどうやって過ごそうかと思案しました。
(レンタカーの返却期限が夜7時、その後夜行バスで帰宅です)
そのまま「どこかの駐車場で寝て過ごす」なんて案もありましたが・・・
小さいなぽ100人による脳内会議の結果、僅差で却下。
採用されたのは「どこか即席で城跡を探して見て来よう」案です。
その採決の付帯条項が「出来るだけ面倒な所」でした。
我ながら、SさんとMさんが複雑に同居した人格なんだと思いました。

という事で、出来るだけ遠い深浦町の城跡をググってみました。
(その時に居た弘前から、往復するだけで4時間消化出来ます)
ググって見つけたのが「深浦館」でした。
紹介している城キチ様は2名のみ。
しかも、5重堀切まであるとのこと。
即決ですw
城跡の所在地だけでは位置がわからず。
とりあえず、登城口にあるという深浦町福祉センターに来ました。
その目の前に、紹介されていた通り説明板がありました


よし、着いた!とその説明板を見てみましたが・・・
深浦館ではなく「元城」と書かれていました。
あれ?違う所に来ちゃったかな???と一瞬不安になりました。
しかし、最後の行に「深浦館と考えられている」の文言が。
ここは深浦館かもしれない、という事ですw

城跡へは、城キチM様が紹介されている通り、説明板脇の林道を進みます。

すると、道端に鳥居(の残骸)がありました。
ここを紹介されていた2名様の写真ではまだ立っていましたが・・・
だいぶ朽ち果てていたので、この目印が消滅するのも時間の問題です。

お2人様は、この鳥居の奥の谷間を登ったと紹介されていました。
しかし、私が訪ねたのは土砂降り雨の雨上がり。
谷間の足元は、山上からの水が流れる沢と化していました。
乾燥している日なら、密生する笹につかまりながら登ることが出来ます。
そんなこんなで、水のたまっていない沢の脇から登りました。
何を今更?な位すでに泥まみれでしたが

しかし、滑りやすい斜面には、いつも掴んでいるような木はまばら。
他に選択肢が無かったので、生まれて初めてシダを掴んでみました。
根がしっかり張っているようで、体重を掛けても抜けませんでした。
おかげ様で、上まで登ることが出来ました


登り切った所は、噂通り主郭と二郭の間の堀でした。
感動の瞬間なので、見えたまま撮っています。

ここは堀なんですよ的に、落ち着いてもう1枚。
左側が二郭で、右側が主郭です。

堀の奥に、小さな小屋が1つ見えました。

近づいて見ると、手前に赤い鳥居が倒れています。
どうやらお祀りしていた方が来なくなって久しいようです。
ご挨拶だけでもしようかと思いましたが・・・
小屋の周りを1周してみましたが、普通の小屋でした。

堀の一番奥は急斜面が落ちていて、その下に広い腰曲輪が見えました。
かなり広そうに見えます。

まずは堀の脇にある主郭から攻めました。
堀の底から見ると、結構高さがあります。

主郭内部です。
これだけ見せると「何、これ?」としか言われないでしょうねw
GPSロガーを身に着けていたので、笹をなぎ倒しながら1周しました。

その調子で、次は二郭へ。
外周に沿って奥まで進むと、かなり深い堀切様に出くわしました


あまりに深いので、下りやすそうな所を探し堀切様沿いに進みました。
すると、一番奥から下りられそうでしたが・・・
更に向こう側を見ると、畝状竪堀っぽく堀切様たちが並んでいました

この光景見てそれとわかる方って、どれくらいいますでしょうか?


堀切様達の形をGPSでトレースしようと、行ったり来たり。
そして写真を撮るのですが・・・
殆ど草


という事で、数少ない堀切様らしい写真です。

5つ目の堀切様の向こう側に上がってみました。
その先は胸の高さまで笹がビッシリ茂っています。
人間らしさが少しだけ残っていたようで「無理」とUターン・・・

せずに、体は勝手に笹の中へ。
まるで笹なんか無いかのようにズンズン進みました。
まだ気温が10度そこそこなので、虫の心配は無いんでしょうけどw
それでも数十メートル進むと杉林になり、下草は無くなりました。
5重堀切の奥は真っ平で、曲輪があっても不思議ではありませんでした。
なので、この奥にもしかしたら何かあるかも?と進みました。

かなり進んだ所(測ったら300m)で、奥に青いネットが見えました。
青いネットの内側は畑で、作業している人もいました。
5重堀切は、こっち側と城域を分断するものだったようです。
登城路が無いのは、もしかしたらこっちから入っていたのかもしれません。
◆歴史◆
ここを紹介されているのは2人様だけです。
参考にさせて頂くとほぼパクリになってしまいます

という事で、説明板の文面を掘り下げてみます。
1443年、安藤氏が南部氏に敗れ十三湊を放棄しました。
安藤氏は後に安東氏と表記するようになる一族です。
陸奥を中心として、出羽・蝦夷にも勢力がありました。
しかし、室町時代になり南部氏が陸奥へ本格進出しました。
そして、南部地方から次第に安藤氏の領地を侵食し始めました。
安藤氏が財源としていた十三湊を失ったのがWikipediaでは1428年でした。
まぁ、その頃に青森県一帯が南部氏に制圧されたのでしょう。
安藤氏はこの頃に深浦に山城を築き、抵抗を続けたようです。
1453年、安藤義季が狼倉(おいのくら)で敗死しました。
安藤義季でググると、南部氏には二度敗れていました。
上で十三湊を失った時期が違っていますが、両方とも正しかったようです。
一度目の敗戦で南部氏と和睦し、十三湊は安藤氏に戻されていました。
しかし、再び南部氏に攻められ、安藤義季が戦に敗れて自害しました。
安藤氏は出羽の上国家と陸奥・蝦夷の下国家とに分かれていました。
安藤義季は本家筋の下国家当主でしたが、ここで断絶します。
以後は又従兄弟の安藤政季が下国家を継いで抵抗し続けました。
この時に拠点としたのが「深浦館」なのだそうです。
・・・説明板に書かれているのはここまでです。
ココを紹介されているお二方は、戦国時代まで使われたと書かれています。
所在地:青森県西津軽郡深浦町深浦字元城 GPSログダウンロードページ
青森県の城跡/なぽのホームページを表示 |
※線がグチャグチャなので補足します。
マーカーのある縦長のエリアが主郭、右下の大きい四角形が二郭です。
その間の線がこんがらがっている所が堀、右下の櫛状の所が5重堀切です。
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