2018/04/30
御館/新潟県上越市
御館は長尾景虎が上杉憲政のために築いた館です。訪問日は2018年4月28日です。

なぜか訪ねていなかった御館の跡に行ってきました。
それまで春日山城のすぐ近くにあるかと思っていましたが・・・
思いのほか遠く離れ、上越市街にありました。
現在は児童公園となり、目に付く遺構はありません。

「御館」の文字が入った何かが欲しかったデス☆彡
表記は「舘」ですが、「館」と同じ意味を持つ「異字体」なのだとか。
元々は「館」ですが、「食えねぇだろ!」と作られた説が濃厚だとか。
・・・まぁ、同じという事でw

御館に関するモニュメントは、公園の北西の角に固められています。

拡大表示
御館の説明板です

右上の角がちょっとめくれていますが・・・
ご飯粒は持ち合わせていませんでした


拡大表示
説明板に載っている図です。
これを見たら、遺構を探し出そうという気が失せましたw
もしこの公園が無かったら、街角に標柱が1本立っているだけだったかも。
◆歴史◆
長尾景虎が上杉憲政のために築きました。
長尾景虎は、後の上杉謙信です。
一応、ネw
上杉憲政は関東管領で、上野国平井城を本拠としていました。
長年に渡り後北条氏による侵攻を受け、領地を侵食され続けていました。
そして1552年頃には、居城であった平井城も陥落してしまいました。
その後も上野国内に留まって抵抗を続けたとする説もあり・・・
最終的にいつ越後に逃れて来たのか、その時期はいまだに確定していません。
長尾景虎が初めて関東に出兵したのは1552年8月です。
この時は、沼田城や平井城を後北条軍から奪い返しています。
上杉憲政のためと思われますが、「=越後に居た」とはならないと思います。
普通は、領地を失う前に援軍を要請しますからネw
だからこそ、平井城とその周辺の城を奪還したのでしょう。
同じ時期から、武田信玄が頻繁に北信濃に侵攻するようになりました。
そこから何度も川中島で対戦するのですが・・・
武田信玄の野望もあったと思いますが、後北条氏と連携したものと思われます。
越後の長尾軍が川中島に釘付けになれば、関東はガラ空きですからw
なので、この時期に上杉憲政は領地を完全に奪われ越後に来たと思います。
1561年、長尾景虎が山内上杉家を継ぎました。
当時の長尾景虎は、北信濃や越中からも援軍要請があり多忙を極めました。
関東からも上杉旧臣達から援軍要請が頻繁にあった事が想像されます。
1560年3月、長尾景虎はようやく関東へ出陣しました。
この時は上野国厩橋城で越年しており、長尾景虎の決意が固そうな感じです。
年を越して2月には鎌倉を制圧。
北条氏康は戦況不利と読み、各地の主要な城に籠城策を命じます。
長尾軍は各地で後北条軍を破り、後北条氏の立てた古河公方も追放しました。
そして1561年閏3月16日、鶴岡八幡宮で盛大に関東管領就任式を行いました。
長尾景虎はこの時に山内上杉家の家督も継ぎ、名を上杉政虎と改めました。
上杉憲政にとっては、最大にして最後の一手だったかもしれません。
これが利いたのか、以後の上杉軍は川中島・関東・越中に出陣しましたw
1578年から御館の乱の舞台となりました。
上杉謙信が後継者を定めないまま急死しました。
そのため、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督争いを始めました。
これが御館の乱です。
御館は敗れた上杉景虎方だったので、そう呼ばれたのだと思います。
上杉憲政はまだ健在で、上杉景虎に味方したそうです。
後北条氏との関係を重んじていたそうですが・・・w
当時の越後では、ザックリと上田長尾家と古志長尾家の派閥がありました。
両家は初代越後長尾氏の子が府中・上田・古志の三家に分かれた一門です。
上杉謙信の在世中は、古志長尾家が一門筆頭格でした。
しかし、上田長尾家の遺児・喜平次(=上杉景勝)を養子に迎えていました。
派閥の頭を滅ぼしたとはいえ、勢力バランスを図ったのかもしれません。
それが、上杉謙信の死により均衡を保つことが出来なくなりました。
はじめは後北条氏や蘆名氏らを味方に付けた上杉景虎が優勢でした。
雪で周辺勢力が越後に攻め込めない時期に、上杉景勝が勝負を決めました。
この時、上杉憲政が和睦を仲介をしようと春日山城を訪ねましたが・・・
上杉景勝方の家臣?に襲われ、上杉景虎の子ともども世を去りました。
以後の御館の様子は不明です。
1599年にはすでに畑となり、耕されていたそうです

所在地:新潟県上越市五智1丁目
新潟県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント