2018/05/16
蔵王堂城/新潟県長岡市
蔵王堂城跡はお寺と公園になっていて、堀と土塁の一部が残っています。訪問日は2015年8月4日です。

城跡の蔵王公園は、町の中に木々が茂っています。
その公園から、蔵王堂城の堀と土塁を見ることが出来ます。

平城跡の宿命か、かなりの部分が無くなっています。
それでも、堀が曲がる角が1つだけ残されています。
出来るだけ沢山見える所から見れば、それっぽい雰囲気があります


堀の内側は安禅寺となっています。
中心部にある鯱が乗った建物は、お寺の毘沙門堂です。

その正面に、おじさんの銅像があります。
右手に軍配、左手は刀に手をかけていて、迫力があります。
おじさんの正体は、堀直寄です。

銅像の後ろに見えていた土塁です。
上の写真で、堀の背後にあった土塁を内側から見た所です。

外からはそんなに高くないように見えましたが・・・
内側からは結構高さがあるように見えます。
◆歴史◆
南北朝時代に中条氏が砦を構えたと伝わります。
中条氏は、鎌倉時代に和田合戦で幕府方だった和田一族の子孫です。
越後に移った和田時茂の子の代に、中条氏と黒川氏に分かれています。
南北朝時代には北朝方として活動し、1352年に南朝方に攻められています。
中条氏はその後、鳥坂城を築いてそちらを本拠としました。
古志長尾氏の城となりました。
南北朝時代に長尾晴景が蔵王堂城に入りました。
長尾晴景は刈羽郡や古志郡を支配した古志長尾氏の祖です。
兄には上田長尾氏の祖・長尾長景、府中長尾氏の祖・長尾高景がいます。
古志長尾氏は、5代にわたって蔵王堂城を本拠としました。
5代目の長尾孝景は1500年頃に栖吉城を築き、移りました。
1510年、長尾房景が蔵王堂城を攻めました。
古志長尾氏は越後守護・上杉家に従ってきた一族でした。
しかし、上杉房能が郡司不入権を廃して、古志長尾氏の権益を損ねました。
そのため、守護代の長尾為景に味方し、上杉房能を自害へ追い込みました。
その後、関東管領の上杉顕定が弟の仇討ちとして越後に攻め込みました。
長尾房景はこの時、長尾為景ではなく上杉顕定に味方しています。
理由がサッパリわかりませんが・・・
この戦いの中で、長尾為景方だった蔵王堂城を攻めています。
おそらくこの頃の城主は、長尾為景の弟・長尾為重だったと思われます。
後に長尾房景は長尾為景方に寝返り、上杉顕定は撤退中に戦死しています。
1578年、上杉景勝に攻められ落城しました。
長尾為重の後の城主がサッパリわからず。
長尾為重の子・長尾景連は1560年、上野国の厩橋城を任されたそうです。
なので、順当にいけば蔵王堂城の城主だったと思われます。
しかし、1562年に後北条・武田連合軍に攻められて厩橋城が落城。
この時に寝返ったと疑われ、上杉政虎(謙信)に処刑されたとされます。
その後の蔵王堂城城主はどこも「上杉家の家臣」としか書かれておらずw
月日は流れ、1578年の御館の乱で蔵王堂城は上杉景虎方だったそうです。
そのため、上杉景勝に攻められて落城しました。
その後の城主は、上杉景勝の家臣・松川修衡が務めたそうです。
1598年、堀氏の城となりました。
上杉景勝が会津へ移されると、越後には堀秀治が越前から移って来ました。
そして、蔵王堂城にはその弟・堀親良が入りました。
しかし、1602年に子の鶴千代に家督を譲って突然出奔。
一説に父・堀秀政と不和だったとされています。
鶴千代はまだ幼かったため、坂戸城主の堀直寄が後見しました。
その鶴千代が、1606年に9歳か10歳で夭折。
その後は堀直寄がそのまま管理していました。
堀直寄はこの頃から、長岡に城を築き始めていました。
蔵王堂城は川沿いのため、たびたび水害に悩まされていたそうです。
1610年、松平忠輝の城となりました。
1608年に堀家の重鎮・堀直政が没し、嫡男の堀直清が家督を継ぎました。
越後の「堀」氏には、主家の堀氏と、家臣の堀氏がいました。
こちらは家臣の堀氏です。
この堀直清と弟の堀直寄も仲が悪かったようで・・・
堀直清が領内の僧侶を殺したことを、堀直寄が徳川家康に告げ口しました。
ここから身内の喧嘩だったものが、徳川家康を巻き込んだゴタゴタに発展。
そのため、主家の藩主・堀忠俊と堀直清が改易されました。
堀忠俊は完全にとばっちりです

堀直寄も1万石減封のうえ、信濃国飯山へ移されました。
代わって越後に来たのが松平忠輝です。
松平忠輝は徳川家康の6男で、側室・茶阿局の子でした。
なぜか生まれた時から父・徳川家康には嫌われていましたが・・・
それでも年々加増され続け、越後に来た時には45万石となっていました。
・・・大大名w
越後に来た松平忠輝は、築3年の福島城を捨てて新たに高田城を築きました。
川に挟まれ海に近かったので水害に悩まされたとされますが・・・
「波の音がうるさくて眠れない」などという噂もありますw
蔵王堂城にはその家臣が入りましたが、高田城築城で忙しかったそうです。
1616年、堀直寄が越後に復帰しました。
1616年4月に徳川家康は世を去りますが、松平忠輝は対面を許されず。
駿府城への入城すら許されなかったそうです。
その後、7月には松平忠輝が改易されました。
徳川家康が死の床で何か言い残したのでしょうか・・・
松平忠輝が去った後、蔵王堂には堀直寄が3万石加増されて帰って来ました。
すると、長岡城の築城を再開し、完成とともに蔵王堂城は廃城となりました。
所在地:新潟県長岡市蔵王町(安禅寺・蔵王公園)
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