2018/04/23
町田城/新潟県長岡市
町田城跡は、新興住宅街の片隅にあります。訪問日は2015年8月4日です。

町田城跡の登城口です。
まだ知りませんでしたが・・・
麓の道端にこんな案内が出ています。

周りはこんな雰囲気です♪
ここだけ路肩が広いのは、きっと城キチ向けのサービスですね


別に階段を付けなくてもよさそうな緩い斜面を登ると・・・

登った先に堀切があります。
城キチは「橋=堀切」です。
たぶん、そうですw

ほら


そのすぐ先に、図の入った説明板があります


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かなり年季が入っているのでしょうか、せっかくのイラストが

まぁ、それでも何となく雰囲気は掴めます


説明板の左側(西側)は、細長い曲輪となっています。
城跡としてはこれだけです。
◆歴史◆
野々村氏代々のお城でした。
ググっても大して何も出ず・・・
現地の説明板に書かれている内容そのまましかわかりませんでした

ザックリ書くと
1221年より北条朝時の重臣・野村氏の居城でした。
北条朝時は名越流北条家の祖です。
執権・北条義時の正室の長男なので、普通なら次の執権になるはずでした。
しかし、1203年に母の実家・比企氏が乱を起こしたため、母が離縁されました。
その後は側室の子で異母兄・北条泰時が嫡男とされ、以後得宗家を継ぎます。
一方、北条朝時は祖父・北条時政の名越邸を継ぎ、名越家と呼ばれました。
1212年に将軍の御台所の官女に夜這いをかけ、父から義絶されています。
しかし、1221年の承久の乱で呼び戻され、北陸で朝廷方勢力を撃破。
以後は加賀・能登・越中・越後の守護を兼任するなど、大勢力となりました。
・・・前置きが長くなりましたが、この時からという事ですね

貞治年中(1362~67年)、下野守信成は上杉憲顕に属しました。
という事は、北朝方ですね!
名越氏は北条一門なので、足利方からは討伐された側でした。
そんな関係なので、北条氏寄り勢力は南朝方と結びつくことが多かったです。
じゃぁ、なんでだろう?と、弱いおつむを捻って色々想像するのですが・・・
越後の特殊事情が絡んでいるのかもしれません。
鎌倉時代末期の越後は、名越氏が守護だったと思われます。
・・・すでに想像から始まっています

そこからの越後の主勢力は名越氏→新田氏→上杉氏→宇都宮氏→上杉氏と推移。
敵の敵は味方という事で、新田氏と戦った上杉氏に従ったのでしょうか?
説明板の一行一行を勝手に想像して楽しんでます

天正年中(1573~91)、越中守信綱は石山本願寺攻めで討死しました。
この期間の越後はバリバリ上杉謙信・景勝が支配していましたが・・・
越後の武将が織田信長に従って上方で従軍していた事情がとても気になります。
石山本願寺は、言わずと知れた一向宗の総本山です。
上杉謙信は越中で一向一揆に苦しめられていました。
その総本山を攻めた織田信長を、上杉謙信は支援したのでしょうか?
上杉謙信は、1577年に織田軍と加賀の手取川で一度戦っています。
なので、共通の敵と戦っているというだけで、援軍は送らないと思います。
両者の出来事を時系列で並べてみると・・・
・1569年、上杉謙信が織田信長に鷹を贈った
・1572年、上杉謙信は織田信長と同盟を結んだ
・1574年、織田信長が上杉謙信に狩野永徳の『洛中洛外図屏風』を贈った。
・1576年、上杉謙信が足利義昭の反織田包囲網に参加し、両者の関係が破綻。
・1577年、加賀・手取川で上杉謙信が織田軍をフルボッコに
という事で、前半は武田信玄対策もあって両者は蜜月関係だったようです。
関係が一変したのが1576年で、この時に本願寺顕如と和睦しています。
なので、越後の武将が織田軍と石山本願寺を攻めた時期が限定されますネ!
町田城でわかっているのは、上の太字の3行だけですけど



所在地:新潟県長岡市町田町
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