2018/04/22
安田城/新潟県柏崎市
安田城は小高い丘を利用した丘城です。訪問日は2015年8月3日です。

訪問当時、当初予想した登城口がハズレてちょっと迷いました

そうしてようやく見つけた登城口がココです。
今ググってみると、皆さまココから行くんダ!って書かれてますけどw

上の写真の道端に鎮座している石碑です。
石碑の案内って、ちょっと珍しいです


石碑の所から坂道を登ると、道端に木のように造り込んだ標柱があります。
・・・別に木じゃなくても何でもいいですけどw

ここを左に曲がった所が城跡です。
入口に上と同じコンクリート製の標柱が立っています


主郭の一段下にある腰曲輪を上から見た所です。
違う所から登ったので、紹介が逆巻きになっています


安田城の主郭です。
細長い丘の上を真っ平に馴らしています。

上の写真で逆光で真っ黒になってしまった城址碑です


主郭は細く長くどこまでも続き・・・

一番奥にこれがあります。
裏から登ってきて、これ見て安心したんですけどね


主郭の裏に降りると、こんなデッカイ堀切様がいらっしゃいます




その下に、麓まで続く竪堀があります。
こっちから登ったので、写真は見上げる感じになってますw
私はたぶん、安田城で一番ツライコースで登ったようで・・・
北側に大きな駐車場のある公園からも、安田城に通じる道があります。
・・・と、どなたかが紹介されていました(爆)
ここなら安心して車を停められますね!
◆歴史◆
大江氏系安田氏のお城でした。
越後の安田氏は大江氏系と桓武平氏系があり、ココは大江氏系のお城です。
大江氏系の安田氏は、鎌倉時代にはすでに越後に土着していたようです。
当時は毛利姓を名乗っていました。
安田氏は東に2kmの北条城に拠った北条(きたじょう)氏と同族です。
南北朝時代には南朝方として活動し、後に足利尊氏方に転じています。
この時に領地から安田姓に改姓したようです。
・・・ハッキリしない事がおおいので、推測ばかりになっています

安田城は南北朝時代、安田憲朝またはその父・道幸により築かれたとされます。
越後守護代・長尾氏の側近でした。
越後では、守護の上杉家と守護代の長尾家がたびたび対立しました。
その中でも衝撃的なのが1507年、長尾為景が上杉房能を討った事です。
この時、安田広春は長尾為景の側近として活躍し、越中遠征にも参戦しました。
安田広春は1524年に没し、養子の安田景元が継ぎました。
安田景元も長尾為景に仕え、1530年代の上条の乱で守護方と戦いました。
長尾為景が劣勢となり引退すると、その子・長尾晴景に仕えています。
その後、長尾景虎が家督を継ぐと仕え、北条高広の謀反を通報しています。
長尾景虎が上杉家の名跡を継いだ後も、その側近として活躍しました。
1580年8月、城主の安田顕元が自害しました。
安田顕元は安田景元の子で、「顕」の字は上杉謙信に与えられたそうです。
上杉謙信の名前に「顕」の字はありませんが・・・
名跡を継いだ上杉家の通字だったと思われます。
それほどまでに頼りにされていたんですね!
1578年、上杉謙信没後の家督争いでは上杉景勝に味方し、勝利に導きました。
しかし、この事が後に命取りとなります。
当時敵方だった五十公野治長や堀江宗親を、恩賞を餌に寝返らせていました。
これにより情勢が一変し、上杉景勝に勝利をもたらしました。
しかし戦後、その恩賞を巡って直江兼続と対立。
直江兼続は上田衆への恩賞を重くし、五十公野氏等は蚊帳の外にされました。
五十公野氏ら揚北衆は猛反発し、安田顕元は立場を無くしました。
上杉景勝にも良い返事をもらえず、ついに安田顕元は自害してしまいました。
安田顕元の自害で恩賞が無いと悟った五十公野公治は、謀反を起こしました。
この頃新発田重家と改名したので、新発田の乱と呼ばれています。
この乱は7年続き、天正壬午の乱(詳細割愛w)に乗り遅れる原因となりました。
その後・・・
安田顕元の自害後、弟の安田弥九郎が家督を継ぎました。
この時、五十公野氏とともに叛いた堀江氏の領地が加えられています。
兄同様、上杉景勝から重く用いられ、名を安田能元と改めました。
上杉景勝が国元に出す書状の宛名は、だいたい安田能元だったそうです。
(直江兼続は、上杉景勝と共に上方に滞在していました)
1598年、安田能元は上杉景勝の会津移封に従い、安田城は廃城となりました。
所在地:新潟県柏崎市安田
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