2018/04/17
時水城/新潟県小千谷市
時水城は、夏城と冬城のある山城です。訪問日は2015年8月4日です。

時水城へ向かう時に、とっても目印になるのがコレです。
城跡へは、この近くの道を東から西へと進んで行きます。

城跡へ向かう道の途中、道端にひっそりとあります。
城キチアンテナMax状態なので、すごく目に飛び込んできましたけどw
コイツは、下の地図で右の方に・で表示した所にあります。

その先に、突き当り的雰囲気バリバリな広い駐車場があります。
何かのお店があり、湧き水もあったような気がします。
・・・もう3年前なので


広い駐車場に愛車を停め、ここからは徒歩で登ります。
未舗装路ですが、じゃじゃ馬な車ならそのまま走れそうです。

登り始めて2分ですが、もう冬城の案内が現れました。
あまりの早さに、ちょっと心の準備が・・・

さっきまでの登り坂を鋭角に戻る感じで進みます。
すでに道が水平ですw

そのまままっすぐ進むと、手造り感満載な橋が現れます。
「え~、これ渡るの?」と叫ぶのは、城キチもどき。
ここで叫ぶべきは「お、堀切ちゃん


その先には、とても眺めの良い削平地が待っていました。
確かに見張りには都合が良いのですが、ちょっと手狭な感じ。
堀切で隔てられてはいますが「え、これだけ?」と、思わず声が出ました。

夏

すぐ目の前に城跡があってそのまま帰るなんて、私には出来ず。
気が付いたら坂道を登っていましたw

冬城があっという間だったので夏城も、と思っていましたが・・・

かな~り登って「まだかな~?」と思っていた所に、これが現れました。
・・・あと、15分か(*´∇`*;)

こんな感じの道を、ひたすら登り続けます。
そういや、こっちは「夏城」でしたね。
確かに、雪の中をこんな所まで登れませんけどw

そんなこんなで昔の人みたく登り続け・・・
上に何かが見えて来ました!

屋根の端っこに「城山之?」と書かれています。
拡大してみましたが、改めて見ても字が読めず・・・
「城山に着いた」ことは何となくわかったので、ヨシとしましたw

その目の前には、あからさまな山頂が見えました(*´▽`*)

そのすぐ脇に、この案内がありました。
城山は城山でも、ちゃんと狙った時水城の山でよかったですw

ここに来るまで城跡らしさが全く感じられませんでしたが・・・
山頂にこれがありました

反対側からの視界を遮る土塁ですね!

そしてその裏には、三角形の曲輪がありました。
ちゃんと草が刈られており、形がハッキリわかります。
これが自然のままだったら、きっと土塁しか無いと勘違いしたでしょう。
ただ、本当にこれだけかと思って某大聖典をちょい見したら・・・
結構大きな城だったようで、脇に腰曲輪がちょこちょこ描かれています。
まぁ、現地ではわかりませんでしたけど。

一番高い所からの眺めです。
冬城とは比べ物にならない位に眺めが良いです^^
◆歴史◆
南北朝時代にはあったようです。
築城年代、築城者ともに不明です。
城主は南朝方の小国氏、北朝方・上杉憲顕家臣の曽根氏の説があります。
1336年、小国政光が足利尊氏方の軍勢に敗れています。
そして、戦国時代には曽根氏がココを拠点としていました。
小国氏→曽根氏という線もありそうな気がします

曽根宗能が没落しました。
サイト様により年はまちまちですが、1552年か1553年頃のようです。
「曽根宗能が長尾景虎に叛いた」とされますが、内容は???です

当時は長尾景虎(後の上杉謙信

詳細は省きますが、相次ぐ内乱を病弱な兄に代わり次々討伐。
強い当主を望む家臣に担がれ、1548年に兄から家督を継いだのでした。
この時、両者を担ぐ派閥争いに敗れたのが、上田長尾氏の長尾政景でした。
対立していた古志長尾氏の長尾景信が発言力を増していました。
不満を募らせた長尾政景は1550年に挙兵。
長尾政景は敗れましたが、この時に長尾景虎の姉・仙洞院を正室に迎えました。
以後は長尾景虎に重く用いられるようになっています。
・・・詳細省いても長くなりましたw
曽根宗能は長尾政景の家臣でした。
討伐したとされる稗生城の平子氏も、立場は長尾政景に近いと思われます。
というのも、長尾政景と同じく長尾晴景派でした。
なので、ますます「叛いた」内容が?です

推測ですが、当時越後各地で発生していた小競り合いの1つだったかも?。
その調停を長尾景虎が直々にしたものの、従わなかったのかもしれません。
長尾景虎は1556年、家中のいざこざに嫌気が差して出奔しています。
・・・周りの状況から推測するしかありません。
その後の時水城については、サッパリわかりません

所在地:新潟県小千谷市時水
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