2018/03/30
大井田城/新潟県十日町市
大井田城は南朝方に属した大井田氏の城でした。訪問日は2015年8月4日です。
大井田城跡へは、国道117号の中条中学校脇から入ります。
当日は北から走って来たのを、このストビューを見て思い出しました。
中学校のこの石垣が、ものすごく印象に残っていますw

この道をひたすら道なりに進んだ突き当りがココです。

説明板を拡大表示
城跡の入口には、標柱と説明板があります

ただ、城の入口というには物凄く無防備な感じがします。
きっと何か工夫がされていたハズですが・・・
今となってはわかりません


すぐ隣には、好きな人は大好きな城址碑もあります。
もちろん、私は大好きです


城跡の入口からは、段々になった曲輪が見えています。
もしかしたら、これが城の入口を厳重にしていたのかもしれません。

その中の一段を真横から見た所です。
幅は3メートル程あり、ここに弓兵をズラっと並べたのでしょうか。
城に入る道はこの真正面を横切るので、思いっきり横矢が掛かっています


左側に段々を見ながら登りきると、こんな虎口が待っています。

上から見たらこんな感じ。
何となくですが、ウサギの巣穴の出口のように見えますw
この奥に、石碑が並んでいるのが見えます。

まずは、テカテカ城址碑さんからです。

一番高い所には、3つ石碑が並んでいます。
左が中條越前守忠魂碑、真ん中が羽川刑部少輔忠魂碑です。
そして、一番右のが贈正四位大井田経隆、贈従四位大井田氏経です。
◆歴史◆
大井田氏の城でした。
大井田氏は新田氏の一族です。
鎌倉時代末頃は大井田経隆が当主で、新田義貞の鎌倉攻めに加わっています。
室町時代になるとそのまま新田義貞に従い、南朝方として活動しました。
大井田経隆の子・大井田氏経は越後の南朝軍を率いて各地を転戦しました。
1338年に新田義貞が討死すると劣勢となり、北朝方の上杉軍に連戦連敗。
周辺の南朝方の城は次々と陥落し、大井田城だけが残りました。
それでも猛攻に耐える内に、新田義貞の子が既に大井田城に居ない事が判明。
すると、北朝方の軍勢は引き上げて、大井田城は落城を免れています。
大井田氏は戦国時代まで続き、上田長尾氏とはほぼ同族の関係にありました。
1564年、長尾政景が宇佐美定満とともに野尻湖で謎の水死。
この時にその遺児・喜平次(=上杉景勝)が、上杉謙信の養子となりました。
そのため、上田長尾氏は長尾政景の弟・景国が継ぐと思うのですが・・・
1565年頃、喜平次の養育をしていた大井田景能が世を去りました。
すると、大井田氏景の娘婿・長尾景国が大井田家の養子となりました。
普通なら、格上の上田長尾家の方を存続させると思うんですけどね。
1590年、大井田景国が切腹(理由は不明)、大井田俊継も戦死しました。
大井田家は大井田景国の子・基政が継いだ?、と思われますが・・・
ご乱心気味だったらしく、1596年頃に清水内蔵之助預かりとなり改易。
タラタラと書いてみましたが、ザックリまとめるとこんな感じでしょうか。

1598年、上杉景勝が会津移封となり、大井田俊継の2人の子も従いました。
大井田城の廃城時期は不明です

所在地:新潟県十日町市中条
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