2018/03/29
琵琶懸城/新潟県十日町市
琵琶懸城は、千秋長尾家が居城とした崖端城です。訪問日は2015年8月2日です。
宮崎はまだ半分ですが、在庫がひと段落したので新潟に戻ります♡

琵琶懸城は、十日町市の中心から南西の信濃川東岸にありました。
周辺は住宅街となっていて、道の突き当りに神社があります。
ここが城跡の入口です。

すぐ右脇にも社があり、そちらからさらに奥へ入る石段が見えます。

入口の鳥居の脇には、こんな感じの堀跡があります

ここは崖端城で、西と南が崖、北と東が台地とつながっています。
その台地と城域を隔てていた北側の堀の跡がこれです。

右側に見えた社から見た城内です。
一面の畑ですw
この広い空間は、某大聖典によるとⅢ郭とⅣ郭です。
真ん中を真横に堀が隔てていたようですが、全く見えません


この広い空間の左端(東側)に、高さ1メートル程の土塁が残っています。

この土塁は、けっこう長い距離続いています。
この外側にも、台地と琵琶懸城を隔てる堀があります。
よく「土塁の外側は…!!」なんて書いていますが、まさにそんな状況です。

一番奥から入口方向を見た所です。
手前の窪みは堀跡のようです。
堀跡って、埋めてから年月が経つと周りより低くなるんですよね!

そして、端っこから見た向こう側です。
ずっと平坦な畑を歩いて来たので、突然の高低差にビックリ。
比高は20メートルあるそうです。

端っこまで来て脇を見たら、赤い鳥居が見えました。
その手前は段差ではなく、神社のある曲輪を囲む土塁です。

そのまま赤い鳥居から奥へ進んで振り返った所です。
やっぱり、堀の向こう側には土塁があるもんですね!
ここが琵琶懸城の主郭です。

城の東側で台地と城を隔てていた、土塁の外側にある堀跡です。
さっさと書かないと、だんだん記憶があやふやになってきます。
在庫があといくつあったか・・・数え切れません

◆歴史◆
平安時代末頃、本間義秀により築かれたとされます。
本間義秀は平家に命じられて、この城を築いたのだそうです。
その経緯や、本間義秀がどんな人物だったのかググっても何も出ず。
越後で本間姓なので、佐渡の本間一族かと思ったのですが・・・
その本間氏は、承久の乱後に大仏氏とともに佐渡入りしていました。
当時は越後平氏の城氏が支配し、信濃の木曽義仲を攻めていました。
平家というのは、おそらく城氏の事と思われます。
この時代の築城だとすると、軍事拠点というよりは居館だと思います。
南北朝時代に羽川刑部により改修されました。
羽川刑部は越後の新田一族で、南朝方として活動していました。
史料により異なりますが、羽川刑部が改修または築城したとされます。
越後は南朝方が優勢でしたが、1338年に新田義貞が討死後は逆転しました。
年代は不明ですが、羽川刑部は北朝方に敗れこの城で自害したそうです。
その時に琵琶を弾いてから自害したのが、城の名の由来だそうです。
1366年、千秋長尾氏の居城となりました。
1363年に上杉憲顕が越後守護に復帰すると、各地で南朝方と戦いました。
その上杉氏に従って、家宰である長尾氏も越後に移って来ました。
千秋長尾氏は名こそ長尾氏ですが、上杉氏から養子が入った家系です。
琵琶懸城に入ったのが長尾景広で、戦国時代まで代々居城としました。
1578年、御館の乱前後から金子忠重が城代となります。
金子忠重は上杉景勝に従い、小森沢政秀とともに琵琶懸城に在城しました。
当地は信濃に通じる要衝で、武田勝頼軍を迎える大役を果たしています。
その後、御館の乱の時の功によって、琵琶懸城の城主となりました。
上杉景勝とともに会津へ移っており、この時に廃城になったようです。
所在地:新潟県十日町市城之古
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