2013/06/16
花房城/福岡県北九州市若松区
花房城は岩尾山山頂に築かれた山城でした。国道199号からは、山頂に大きなアンテナがある山が見えます。
東二島2丁目交差点から山側に入り、水上観音寺を過ぎた所から山頂への道があるのですが・・・

▲立入禁止
写真のとおりバリケードが。
「車両進入禁止」なら徒歩で入って行くのですが
「立入禁止」立入禁止と書いてあって、
尚バリケードがあっては入る訳にも行かず。
遺構もあるらしいので、是非見たかったのですが・・・
私有地では地主さんの意向に逆らう訳にはいきませんねT_T
◆歴史◆
色んなサイトといっても、
片手で数える位しか花房城については書かれていませんでした。
おそらく立入禁止になる前に訪城されたのだと思います。
それらのサイトで書かれていた事は
・麻生家見が大内義弘と戦っていた。
・応永年間(1394~1428年の間)に
畑城主・香月備前守盛経により攻め落とされた。
・落城悲話として、狩屋に隠れていた姫が見つかり、その場で殺された。
くらいです。あまり詳しい話は残っていないようです。
燃・え・ま・す・ね

ちょっと意地になって色々調べてみました。
まずは麻生家見について。
彼は麻生氏の総領・麻生上総介義助の子です。
義助の子は他に山鹿仲中、麻生家春、麻生弘家、
麻生家清、北麻生資家がいました。
北麻生資家は義助の兄弟ですが、義助の養子になりました。
このいきさつも知りたかったのですが、わからずT_T
この面子の中には見覚えのある名前が。家春と弘家です。
1436年、家春とその嫡子・家慶がそろって討死。
1438年、幕府の裁定で弘家が家督を継ぐ。
幕府の裁定に2年もかかっている所にゴタゴタを感じます。
この家督相続をめぐっては、
1478年になって家春の次男・家延が謀反を起こしています。
やっぱり相当な修羅場があったのでしょう。
話を花房城落城前後の時代に戻すと、
大内義弘は幕府の中でも六分一殿と呼ばれた大身でした。
「六分一殿」とは、日本の1/6を領有しているという意味です。
その大内義弘ですが、1399年に応永の乱を起こし、
堺で討死しています。
・・・ということは、花房城が落城したのは
応永のはじめ頃(1394~99年の間)ということに。
この頃の情勢は、山鹿仲中や北麻生資家が
幕府に反抗的で、所領を没収されています。
麻生氏は大内氏の推挙により幕府奉公衆を務めていました。
奉公衆の惣領は幕府が任命するので、
即ち、惣領家と争っていた事になります。
・・・ということは、義助またはその後を継いだ家見か
家春と争っていたと思われます。
ここも調べてみたのですが、
何も出てきませんでしたT_T
麻生氏が大内氏と戦うということは、
不満があったか幕府から命令があったのでしょう。
また、香月氏が麻生氏と戦って勝ったのに、
その所領を得ていません。
これらから想像すると・・・
・麻生氏惣領は、大内氏と行動を共にして上方で軍事行動をしていた。
・その間に庶流が謀反を起こした。
・その鎮圧を大内氏が麻生氏に隣接する香月氏に命じた。
ということなのかもしれません。
そして、ここで敗れているのが麻生家見で、
家春が1436年に討死したということは・・・
義助または家春 vs 家見という構図になると思います。
落城後に逃亡した姫がその場で殺されたとなると、
家見が生き延びた可能性も低いですね。
所在地:福岡県北九州市若松区畠田
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コメント
無題
2021/09/20 11:09 by 元不登校社長の笑色的生活のススメ URL 編集
Re:無題
見て回る様になってから知りましたが、城跡は思った以上に身近に沢山ありました。北九州は特に激戦地だったので、山を見たら「何かあったかも?」なんてソワソワします。ご近所ですと本城とか高塔山にもありましたよ。
2021/09/20 15:20 by なぽ URL 編集