2018/03/24
田野城/宮崎市
田野城は別名・仮屋原城とも呼ばれた伊東四十八城の1つです。訪問日は2018年2月10日です。

ここも訪問記ゼロで、どうやれば城跡に辿り着けるか頭を悩ませました。
まずは真正面ということで、城跡の真下にある川の合流点に行きました。
清武川に架かる橋を渡ると、お城を超意識した建物があります

望楼型の白亜の模擬二重櫓でしょうか。
天守にしなかった所に、奥ゆかしさを感じますw

奥に見えるのが、田野城があった山です。
ここはただの空き地ではなく、何となく公園っぽさが漂います。
川の合流点付近から、川を渡って登れる???という感じで攻めます。
すると、〇印の所に城キチセンサーに引っ掛かる怪しげな気配が・・・


何と、田野城の説明が書かれたプチ城址碑発見です(*´▽`*)
せっかくなので、お城のあった山を背景にして撮影。
後ろの木の葉っぱが無いので、バッチリ写ります♪
寒いのは超苦手ですが、城跡巡りはやはり冬が一番です。

さて、この一番奥まで進むと、城の真下を流れる川が見えます。
水量が少ないので、足を濡らさずに渡ることは出来そうですが・・・
その向こう側は、ちょっと登れる感じではありません


ここもいくつか「ここから行けるかも」候補を考えていました。
城跡の周りをひたすら走り回り、城跡方向への道を片っ端からアタック。
しかし、ここら一帯は某最高学府の演習林。
それっぽい林道の入口は、大体チェーンが張られています。
私、狩りはしませんので!w
なんて言いながら入りたい気分でいっぱいでしたが・・・

立入禁止ではなさそうですが「事前に入林許可を受けて下さい」とあります。
どこをどう行けば辿り着けるのか未知の山城。
どこへ行くのか訊かれたら「運が良ければ城跡」と答えるしかありませんw
まぁ、そんな連絡すらしていませんが

勝手に入るのは流石によろしくないので、ここで撤退しました。
◆歴史◆
1448年頃、伊東祐堯により築かれました。
伊東祐堯は清武祐憲に請い、田野の地を手に入れました。
この年、清武祐行が没しており、その年に?というタイミングではあります。
伊東祐堯は1444年に家督を継いでから、反抗的な一族を討伐してきました。
もしかしたら清武氏も?という文面はチョロチョロ出てきますが…
現地の説明板によると、島津軍の侵攻に備えて城を築いたとされます。
築城を命じられたのは仮屋原甚左衛門ですが、人物像は???です

1541年、長倉能登守の乱の舞台となりました。
長倉能登守は長嶺城主で、伊東宗家の家老を務めた人物です。
伊東祐充の没後、後継ぎが無かったためその弟が後継者となりましたが・・・
2人いた同母弟のうち、長倉能登守は下の弟・祐吉を猛プッシュしました。
その結果、伊東祐吉が家督を継ぎましたが・・・
わずか3年で病死し、残った伊東祐清(=義祐)が家督を継ぎました。
そんな経緯があり、長倉能登守は伊東義祐とは不仲だったようです。
長倉能登守は穆佐、長嶺、石塚、田野を長倉方として挙兵。
飫肥城の島津豊州家も味方につけましたが、伊東義祐に敗れました。
長倉能登守はこの戦の中で戦死しています。
その後も長倉氏が城主だったようです。
伊東宗家と一緒に日向に来た庶流なので、人数もかなり多いのでしょうか。
「長倉姓」というだけで根絶やしにされる程、単純な話ではないですけどw
永禄年間(1560年代)の城主は長倉河内守とその子・長倉宮内大夫でした。
1572年から翌年には、長倉弾正左衛門尉の名が日向記に登場します。
長倉弾正左衛門尉は田野清武の兵を率い、北郷氏の山道建設を妨害しています。
1577年、島津家の城となりました。
伊東義祐が島津軍に敗れ、豊後へ落ち延びました。
島津家の城となるとその家臣・大寺大炊助が城主となっています。
大寺大炊助については、没年が天正15年(1587年)という事だけわかりました。
その後がわかりません・・・
1587年、豊臣秀吉により島津氏が討伐されました。
この時、島津軍が伊東氏から奪った日向の領地がかなり没収されています。
伊東祐兵には清武城と曽井城が与えられ、大名・伊東家が復興しました。
田野城は、清武城に属する城だったので返還されたかもしれませんが・・・
説明板によると、1615年の一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎市田野町乙
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