2018/03/15
井上城/宮崎県延岡市
井上城は、縣土持氏が初めに本拠とした所です。訪問日は2018年2月11日です。
五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた中洲に、延岡城があります。
その周りにいくつも城跡があるので、延岡城の支城群だと思っていました。
ところが、それぞれのお城について調べると、私の予想はハズレでした。
大雑把に言うと、そのほとんどが縣土持氏が本拠としたお城でした。

井上城は、道を挟んで恒富中学校の反対側にあります。
ナビで場所を探すのに、学校ってすごくいい目印になります

登城口の所は、路肩がかなり広くなっています。
通行の邪魔にもならず、割と安心して停めておけます。

上の写真ですでに写っていますが、入口に説明板があります。
長らく延岡一帯を支配した土持氏ゆかりの城なので、気合い入ってますね!

登城路はこんな感じです。
あまり人が来る感じでもないのですが、かといって荒れてもいません。

途中、左側にこんな感じで何かの入口がありました。
これはもう、入るしかありませんよね?w

道が割と綺麗だったのは、お墓があるおかげのようです。
お墓のある所は、尾根に沿って平坦面が4、5段連なっています。

尾根の段を見て登城路に戻り、左カーブの左側の曲輪です。
位置関係としては、お墓のある曲輪の最上段に当たります。
草ボーボーです


この辺から、雰囲気が山城っぽくなってきます


しばらく進むと、今度は道の右側に廃屋が現れました。
見た感じは住居のようですが、手前の壁を残して崩れています。
ここもまとまった平坦面があるので、曲輪の1つと思われます。

廃屋のある曲輪の1段上にも、まとまった平坦面があります。
その入口に笠原鷲太郎関連の石碑があります。
この奥にお墓があるようです。

そこから道はさらに険しさを増し、高度を上げていきます。

道が突然斜面の方に曲がったかと思うと・・・

食い違い虎口のような感じで上の段に上がりました。
上がった所は、真正面に土の壁が見えます。
この土の壁は、主郭の城塁です。

城塁の手前は窪んでおり、堀切となっています。
堀切の右側には、お地蔵様が並んだ曲輪があります。

城塁の左側を回り込むように階段があり、ここから主郭に入れます。

上がった所の右手に、小さな神社があります。
あまりちゃんと見なかったのですが、お稲荷様でしょうか?

階段から上がった真正面には、真新しい標柱が立っています。
側面には小さな文字で、お城についての説明が書かれています。
どうせなら、図付きでバッチリ本格的なヤツがいいんですけどw
…と、むさいオッサンがおねだりしてみました


神社の裏からは、下の堀切と曲輪が見渡せます。

一番奥から見た主郭です。
幅15メートル、長さ50メートルほどの細長い曲輪です。
季節のおかげか、草が薄くて散策しやすかったです♪

階段の脇には、石碑が1つありました。
お墓かと思って撮影せずにいましが、見たらやっぱりお墓でした。
ただ、誰のお墓かと思ったら、土持相模守と彫られています。
きっと城主様なんだろうと思いますので、後でじっくり調べてみます

◆歴史◆
縣土持氏が本拠としました。
土持氏の出自は、宇佐八幡宮の神官・田部氏の一族と考えられています。
宇佐八幡宮は日向に広大な荘園を領有し、その荘官として土着したそうです。
平安時代には大族・日下部氏の養嗣子となり、広大な領地を継承しました。
説明板では、築城は1177年土持栄綱または1297年土持国綱と書かれています。
ただし、当時の土持氏の領地は五ヶ瀬川以北の宇佐宮領だったそうです。
鎌倉初期は豊後守護の中原親能、鎌倉中期は門川伊東氏の領地でした。
・・・なんて、Wikipediaには書かれていました。
でも、いろいろググってみると、説明板の説が正しそうな事も出てきます。
主郭に「土持相模守」のお墓があり、「誰だろ?」でググってみると・・・
井上城周辺の神社やお寺がいくつかヒットしました。
これらは平安時代末の1180年前後に、土持栄綱により建立されていました。
中原親能は源頼朝の側近で、1209年に没しています。
そして、源氏が平家を壇ノ浦で滅ぼしたのが1185年のことです。
中原親能が日向に領地を持つとしたら、それ以降と考えるのが自然です。
なので、説明板の1177年築城説は、十分にあり得る事です。
ただ、平安時代に山城があったかどうかになると?ですけどw
門川伊東氏は伊豆の伊東氏の一族です。
伊東祐経が1190年に領地を与えられ、庶子を日向に派遣しました。
その中で、伊東祐景が富田庄と県庄を治め、門川伊東氏となりました。
ほかに諸県郡には木脇伊東氏、田島(=佐土原)には田島伊東氏が土着しました。
という事は、中原氏が縣を治めた期間はとても短かったという事ですね。
伊東氏の諸流は、日向各地で在地勢力として根付きました。
室町時代になると土持氏は北朝方として、畠山直顕に従いました。
畠山直顕は土持氏や伊東本家を従え、瞬く間に日向の南朝方を討伐しました。
この時期、鎌倉時代に来た各地の伊東氏諸流は、南朝方として活動しました。
想像ですが、土持氏は鎌倉幕府に領地を奪われていたのかもしれません。
土持宣栄は畠山直顕に従って各地で戦功を挙げ、勢力を拡大しました。
土持氏の井上城入城は、1336年以降の可能性が高いと思われます。
1429年、土持氏は西階城へ本拠を移しました。
伊東氏は島津氏と日向南部を巡り争っていました。
島津元久は弟・久豊を穆佐城に置き、伊東軍の侵攻に備えました。
しかし、島津久豊は伊東祐安の娘を正室に迎え、暫くの間は平穏でした。
1425年に島津久豊が没したため、伊東祐立が薩摩へ赴きましたが・・・
そこで甥に当たる島津忠国に毒殺されそうになり、再び争い始めました。
(島津久豊の正室は伊東祐立の姉で、島津忠国はその子です)
1427年に一度和睦したものの・・・
1434年に伊東祐安が没すると、島津軍が再び日向へ侵攻しました。
この時、伊東祐立は土持氏の協力を得て島津軍を撃退。
1435年に再び和睦し、以後1480年頃まで島津家との関係は平穏となりました。
西階城は井上城から見ると、大瀬川を渡った対岸にありました。
明らかに南からの侵攻に備えた場所に移っています。
土持氏にとっては本拠だった城なので、守備兵を置いたかもしれませんが…
構造は結構シンプルなので、そのまま廃城になったかもしれません。
さらに17年後の1446年、今度は五ヶ瀬川を渡った松尾城へ移りました。
これは、伊東宗家との仲が次第に緊迫してきたためと思われます。
1444年に伊東祐堯が家督争いを制すると、勢力拡大を加速させました。
ついには日向守護職を望むようになり、土持氏と対立し始めました。
そして1456年、伊東宗家が土持氏を攻撃するようになりました。
この時の戦で財部土持氏は滅ぼされ、縣土持氏は辛うじて生き残りました。
以後、土持氏は大友氏や島津氏と誼を通じ、伊東氏と争い続けました。
所在地:延岡市古城町 GPSログダウンロードページ
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