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西階城(1)/宮崎県延岡市

西階城(にししなじょう)跡は、大部分が運動公園となっています。
訪問日は2018年2月11日です。

【写01】西階城

駐車場の奥にある階段上から見た運動公園の様子です。
ガッツリ平らにされちゃったように見えます。
この辺りの高い部分は城跡だったらしいです。
城の周りは大湿原だったようなので、それで平らなのかもしれません。
・・・まぁ、削られた箇所も多々ありそうだ、という事ですあせる

【写02】西階城

回れ右して、階段を上がった所です。
ここに来る前のリサーチでは、この辺り一帯が城跡という事しかわからず。
どこをどう見ようかというのが???なまま来てしまいました。
そんな私にとって、頼りになるのが案内図です。

【写03】西階城

上の写真で真正面に見えた案内図です。
右の方には城キチの天敵が並んで紹介されています。
山城シーズンが真冬なのも、彼らが居ない時期だからこそですw
ただ、この図の中には「城」の文字は全く見えず・・・
う~ん、どうしようwww状態に。

【写04】西階城

他に何か無いか?とキョロキョロしていると、もう1枚案内図がありました。
土の壁の前に置かれた案内図、もしや?と期待して近寄ると・・・

【写05】西階城

端っこの方に小さく「西階城跡」の文字がありました!
ただ、そこに至る道は描かれていません。
何となく「あぁ、そっちの方向ねw」な感じで突撃しました。

【写06】西階城

案内図の後ろにあった土の壁は、山に入る道を隠すかのような感じでした。
なので、もしかしたらそういう事???ラブラブなんて、ちょっと期待。
細長い尾根を、ちょっとずつ登って行きます。

【写07】西階城

ずんずん登り続けると、5メートル四方程の平坦地に出ました。
何となくですが、物見台のように見えます。
この先もっと登るんだろなー、途中に堀切あるかなーなんて思いましたが…

【写08】西階城

その先の道は、なんと真っすぐな下り坂でしたあせる

【写09】西階城

下り切ると、脇の高低差のあんまり無い道と合流します。
まぁ、これも見なければ分からない事だという事でw
帰りはもちろん、平坦な方を歩きましたw

【写10】西階城

ただ、またすぐに怪しげな階段が脇にありました。
確かコッチの方だったような気が!と、根拠の無い勘が働きます。
ということで、こっちに吸い寄せられるように進みました。

【写11】西階城

階段を登った先には、結構な広さの平坦地がありました。
そこにタタズム崩れた藤棚・・・
ここが案内図に描かれていた「藤の広場」のようです。
たぶん、ですけどあせる

【写12】西階城

道はやがて二又にわかれました。
もちろん、案内ナッシングw
もう、あれこれ考えても仕方ありません。
テキトーに右へ進みました。

【写13】西階城

すると、道は急斜面を回り込む感じになりました。

【写14】西階城

一番奥まで回り込むと、かなり広い平坦地に出ました。
どうやら曲輪のようです。
入口には虎口のように凝った造形は無く、土塁や堀も見当たりませんが。

【写15】西階城

この平坦地は、中心が周りよりも2メートル程盛られています。
一番高い所から周りを見回した光景です。

【写16】西階城

端まで行くと、さっき歩いてきた道が下に見えました。
歩いていた時には気付きませんでしたが、道は腰曲輪を通っていました。
周りに低い木が茂っていたので、そこが平坦地と気付かなかったようです。

【写17】西階城

上の平坦地からは、さらに奥へと道っぽい跡が続いていました。
しかし、当日は何かの大会があるらしく、やたらとマイクで何か言ってました。
それが「関係者以外は出て下さい」だったらどうしよう?なんてドキドキ。
落ち着いて考えればそんな事は無いのですが・・・
一応城跡っぽい所も見る事が出来たので、そのまま元来た道を戻りました。

見た所が本当に城跡だったのか?と、帰宅してからググりまくりました。
すると、衝撃的な事実が・・・
確かに西階城の城域でしたが、見てきたのは「東の曲輪」でした。
西階城の主要部は更に西奥で、深い堀切があるようです。
ビビッて戻る前に見た道を進めば、方向的には辿り着けそうな感じでした。
延岡城のスタンプや高千穂方面の城跡巡りは、まだまだこれから。
その時にそちらもちゃんと見て来ようと思います。


◆歴史◆

1429年、土持全宣が築き、本拠としました。

土持全宣が、五ヶ瀬川と大瀬川の分岐した所に新たに城を築きました。
城の周りは低湿地で囲まれており、要害の地だったそうです。
それまでは大瀬川南岸の井上城を本拠としていました。
当時は伊東祐立の姉婿・島津久豊が没し、両家が再び争い始めた頃でした。
伊東祐立は土持氏より正室を迎え、協力して島津軍と対峙していました。
しかし、島津家は薩摩が内乱状態となり、1434年に伊東家と和睦。
両家は1480年までは良好な関係が続きました。

1446年、土持宣綱が松尾城を築き、本拠を移しました。

1444年、伊東祐立が上洛の途上、播磨で落馬し世を去りました。
ここから土持氏の試練が始まりました。
伊東家では家督争いが始まり、土持宣綱は松尾城築城を始めています。
最終的に勝ち残った伊東祐堯は、伊東祐立の子か孫とされますが・・・
伊東氏と土持氏の戦いは、1456年に始まります。
松尾城の築城は、いきなり伊東宗家に備えたものではないかもしれません。
伊東祐立の没後から伊東祐堯が家督を継ぐまでに、2人の名が挙がっています。

1人は伊東祐家で、本来家督を継ぐ筈だった人物だそうです。
伊東祐家を殺し家督を奪おうとしたのが、伊東祐郡です。
伊東祐郡は家臣団の支持を得られず、伊東祐堯が当主に担がれました。
このゴタゴタに危機感を抱き、より堅固な城が必要になった。
…かと思っていましたw

いろいろググっていたら『延陵世鑑』の一文が紹介されていました。
それは・・・
「宝坂の城災難多く是有るによって松尾の城を築き移り給ふ」
(宝坂の城は西階城の別名です)
川に挟まれ湿原に囲まれた地理は、水害が多かったのかもしれませんあせる

ただ、土持氏は一族を置き、城を守らせました。
この一族はもう1つの別名・中の城から、中城姓を名乗りました。


所在地:宮崎県延岡市西階町1丁目(西階総合運動公園)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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